愚者の石坂
どうして、どこに、向かって歩いていたのか、さっぱり思い出せない。いや、待てよ。それ以前のことが、全く、皆目、思い出せない。
「誰はどこ? ここは私? いや、落ち着け。そうだ!」
財布の中に、診察券とか、運転免許証とか、自分の名前が、書いてある物があるかも。
ズボンのポケットにも、上着のポケットにも、財布はなかった。ということは、今、持っているアタッシュケースの中か?
ありがたいことに、アタッシュケースに鍵はかかっていなかった。
「さて、財布、財布っと、って、えっ?」
財布はあった。5つつも。なんでこんなにたくさん財布を持っているのだろうか。
「さては私は、財布屋さんか?」
それにしては、5つの財布すべてが、使用感があった。財布を開けて中身を見た。期待していた運転免許証があった。10枚も。すべてが同じ顔写真で、苗字は皆、石坂だが、名前が10枚とも全部違ってイタ。
「うーむ、さては、私は、運転免許証屋さんか?」
いや、そんな職業、あり得ないだろう。
「つまり、私は、一卵性の10人兄弟の1人で、みんなの免許証を預かっているのかも知れない」
気を取り直して、さらにアタッシュケースを調べると、大量の名刺が入っていた。100枚も。これまた、それぞれ、苗字は石坂で、名前は先ほどの10人。しかし、その職業はバラバラ、というより、バラエティに富んでいる、と言った方が良さそうだ。
「すごいな。俺たち兄弟。一体どれだけ資格を持っているんだろう?」
さらに、アタッシュケースを調べると、携帯電話が出てきた。5台も。これで、9人の兄弟に連絡できるかも、と思ったが、パスワードでガードされていて、調べることも、電話をかけることも、何も、できなかった。
さらに調べてみると、アタッシュケースが2重底になっていることに、気がついた。2重底を開けてみると、中には何やらビニール袋に入った白い粉が、びっしりと敷き詰められていた。
「こ、これは……、うどん粉か? さては、私は、うどん屋さんか?」
ここまでで分かったことを、整理してみよう。
・私は、一卵性の10人兄弟の1人。
・私は、その10人兄弟の運転免許証を預かっている。
・私たち10人兄弟は、多彩で、それぞれ、たくさんの資格を持っている。
・私は携帯電話のコレクターで、5台の携帯電話を使い分けている。
・そして、私は、アタッシュケースの2重底の中に、うどん粉を隠すようにして、持ち運んでいた。
これらの事をもとに、足りないところは推測して埋めてストーリーを組み立ててみよう。
私は、一卵性の10人兄弟で、様々な方面の資格を持っているが、主にうどん屋を営んでいる。
女性関係では、モテモテで、現在は、5人の女性を又にかけ、浮気がばれないように、1人の女性それぞれに1台の専用の携帯電話を使い分けている。
ところが、ある日、1人の愛人に、別の愛人とラブホテルから出てくるところを、見られてしまった。私は、苦し紛れに、それは、私の兄弟だと言ったら、本当に10人も兄弟がいて、その上、全員がそっくりだということを証明しろ、と言われ、兄弟全員の運転免許証を見せに行った。
その道すがら、伝説のうどん粉を作っている製粉所が近くにあると聞き、喜び勇んで飛んで行った。実際、そのうどん粉を見てみたら、伝説と呼ぶにふさわしい素晴らしさだった。そこで、さっそく10人の兄弟で試食するために、懇願して少量分けてもらったが、その時の条件で、絶対に公言してはいけない、と言われた。仕方がないので、アタッシュケースの2重底に隠して運んだ。
と、まあ、こんなところだろうか。うむ、なかなか自然で、無理のない設定だ。
しかし、私が誰なのか、という事を初め、他に何も、1つも思い出せない。仕方がないので、警察に行こう。兄弟たちや親が、捜索願を出しているかも知れない。
警察の受付で要件を言おうとしたら、いきなり誰かに腕をつかまれた。
「兄さん、どこに行ってたの?」
「兄さん、やっと帰ってきてくれたんだね」
「弟よ。心配したぞ!」
見れば、私と同じ顔をした男たちが9人。良かった、良かった、と手に手を取り合って喜んでいる。
「いやぁ、みんな心配かけてごめん。お詫びと言ってはなんだけど、伝説のうどん粉で打ったおいしいうどんをごちそうするよ」
「いや、それは無理だろう」
「警察のご厄介になるかもよ」
「えっ? なんで?」
「おい、あんた、どういう了見よ?」
「よくも、5つ又なんかかけてくれたわね」
「絶対に許さない」
振り向くと、5人の愛人が、鬼の形相で私を睨んでいた。私は、命の危険を感じて、一目散に逃げようとしたが、あっさり捕まってしまった。
弟の1人が、
「警察の前に、救急車のお世話になってしまうかもね」
と言った。