紺青の縁 (こんじょうのえにし)
霧沢亜久斗の愛称はアクちゃん。だがルリは、今まで一度も霧沢のことをアクちゃんと呼んだことがない。霧沢が理解に苦しんでいると、ゆるゆると口にする。
「私、霧沢君のことを、いつもずっと、心の中では……、アクちゃんと呼んでたのよ」
ルリの目にはまた大粒の涙が溢れ出る。それらはルリの過ぎ去っていった過去の闇を、キラキラとした輝きに変えていくかのようでもある。そして今という時の水の流れの中へと、それらは雫(しずく)となり吸い込まれ、消えていく。
美しい。
霧沢は純粋にそう思った。
霧沢は本当のところはルリが好きだった。だがそれ以上に、世界に羽ばたきたかった。そんな青臭い夢を見てしまっていたのだ。
そのためか、ルリが言う「心の中では、アクちゃんと呼んでいたのよ」、その哀切な思いに気付くこともなかった。今、霧沢の胸に後悔が走る。そんな時に、ルリが短い言葉をぽつりと……。
「キスして」
それは切な過ぎる女心の発露か。
その響きは早瀬の水音に今にも消されてしまいそう。
しかし、それは今までのどんな言葉よりも重く、霧沢の心の奥底に何度もこだまする。
霧沢は確かにジャズ喫茶店でルリと再会した。その時ルリは「霧沢君、残念でした、私にはちゃんと他に好きな人がいるわ、わかんないでしょ」と粋がっていた。そんなルリが今夜はしおらしい。そして「キスして」とまで渇求してくる。
霧沢がルリのことがどれだけ好きだとしても、ルリとの縁は薄い。二人の間で、決して愛は結実しない。霧沢は学生時代からそう思っていた。
「なぜルリは、そんな言葉を発してしまったのだろうか? 一体ルリに何があったのだろうか?」
霧沢は訳がわからなかった。しかし、そんなルリが愛おしく、冷静であるはずのルリへの想いが熱くなる。
ルリをそっと引き寄せた。そして優しくルリを抱き締める。
こうなってしまった二人には、もう言葉はいらない。
出逢ってから十年以上の歳月が経ってしまっていた二人。霧沢は自分の唇を恐る恐るルリの唇へと重ねていった。そしてルリの唇を初めて奪った。
それはぎこちなく、胸がきゅっと締め付けられるようなルリとのファーストキス。
しかし、二人はもう学生時代の若い二人ではない。このファーストキスは、より深い大人の世界への単なる入口だったのだ。
二人に、これを切っ掛けとして、欲情の火が点いてしまった。霧沢とルリは心の縛りを全部解き放つ。
そこから鴨川の水の旋律に合わせるように、何回も何回もキスを繰り返す。それはまるで八年の空白の時の流れを、一つ一つ今埋め戻すかのように。
そんな二人を、東山の淡黄の丸い月がいつまでも仄かに照らし続けている。
だが霧沢とルリにとって、その程度のものでは物足りない。
二人はもっと乱れてみたい。男と女の濡れた闇へと落ちていきたい。
そんな愛欲に取り憑かれてしまったのだろうか。霧沢とルリはぴたりと身体を寄り添わせて、秋の夜の静寂(しじま)の中へと、その二つの肉体を消滅させていくのだった。
作品名:紺青の縁 (こんじょうのえにし) 作家名:鮎風 遊