紺青の縁 (こんじょうのえにし)
五月の黄金週間も終わり、三十歳の霧沢は心身ともリフレッシュさせ、いつもの仕事へと戻った。
それから忙しい日々が続き、洋子の店を訪ねてからあっと言う間に六月中旬となってしまった。
古都京都は梅雨の時節、むっと蒸す日が続く。そんな鬱陶しさを払拭(ふっしょく)するために、霧沢は一人宇治川近くにある三室戸寺(みむろどじ)を訪ねてみた。
夜もすがら 月をみむろと わけゆけば
宇治の川瀬に たつは白波
ここは千手観音を本尊とする西国十番札所の観音霊場であり、光仁天皇の精舎でもある。そしてまた京都の花寺の一つでもある。
春の躑躅(つつじ)、初夏の紫陽花、夏の蓮、秋の紅葉と四季折々に庭園は美しく彩られる。特に六月の中旬ともなれば、花びらに雨の滴(しずく)を溜め、一万株の紫陽花がより淡淡(あわあわ)と咲き乱れる。
その日も雨だった。霧沢は傘を差しながらも、薄紫に染まる庭園をゆるゆると散策していた。
傘を差せば、紫陽花に埋もれた通路は余計に狭くなる。そぼ降る六月の雨が、人を避(よ)けると同時に傘からはみ出た肩を冷たく濡らす。霧沢はそれを特に気にすることもなく、ゆっくりと観て歩く。
そんな途中で、一眼レフのカメラを手にしたひょろっと背の高い男とすれ違う。そしてその後、その男がすぐさま声を掛けてきた。
「ひょっとしたら、霧沢……、霧沢亜久斗じゃないか?」
霧沢は背後からの突然の呼び掛けに振り返る。そこにはじっと霧沢を睨むように、その男が突っ立っていた。霧沢は「どこかで会ったことがあるなあ」と考えを巡らせる。
そんな間(ま)が男は辛抱できないのか、「俺だよ、花木宙蔵だよ。お前は俺たちから長年逃亡してたから、もう俺のこと、忘れてしまったんだろ」と声を上げながら近寄ってきた。それと同時に霧沢は思い出す。
学生の頃も確かにひょろっと背が高かった。そして喉仏が出ていた。そのくせ円(つぶ)らな目をしていて、いつもひょうひょうと振る舞っていた。宙蔵はそう悪いヤツではなかった。
面影はかってのままだったが、少し歳を取った感じがする。
「おう、宙さんか、久し振りだなあ。それにしても、なんでこんな所にいるんだよ?」
霧沢は懐かしくもあり、自分のことはさておいて、思わず問い返した。すると宙蔵は上機嫌な表情となり、「ああ、ちょっと目出度いことがあってね。記念に紫陽花の絵を描いてやろうかと、その題材探しだよ、ははははは」と笑う。
そして今度は昔と変わらぬ「で」の多い話し口調で、霧沢の愛称を使い聞き返してくる。
「で、アクちゃんなあ、京都に戻ってきたとは聞いていたけどね。で、金髪女とでも、国際結婚してるんだろ?」
霧沢は突然に身上調査をされているようで、「そんなの、結婚なんて……、全然まだだよ。いい女に巡り逢えなくってね」と返しながら、洋子のことを思い出した。そして思わず「お前が、洋子のパトロンなんだろ?」と突っ込みそうになった。
作品名:紺青の縁 (こんじょうのえにし) 作家名:鮎風 遊