彼が花園を呼ぶ
どうして、どうして、どうして、愛なんて言葉があるのだろう。
【彼が花園を呼ぶ】
窓辺に座り、読んでいた本のページを捲る。
開いている窓から潮の匂いがする風が吹きつけて、自分が捲ったページを元に戻した。
アイスティーの氷が溶けて小さくなり、カタンとコップの中で崩れた。
赤いストローが揺れるのを目の端で捕えながら、栞を挟んで本を閉じた。
甘えたような声を出して、猫が足もとにじゃれついている。
片足で相手してやると嬉しそうに歯を立てた。
抱き上げて喉を触るとごろごろと音を立てて目を閉じるその可愛い猫に額をつける。
猫は鼻をひくひくと動かしてさっきまで僕が開いていた本へと腕を伸ばして爪で引っ掻いた。
それに気付いたから僕も目を開ける。
陽に染まってしまった本はどのページも黄ばんでいる。
「彼の匂いがしたのかい?」
猫はにゃあと甘えたような声を出す。
「僕にもその匂いが分かればいいんだけれど」
目の前にある本をぱらぱらと捲ると、読んでいたページよりずっと先のページに何か紫色が見えた。
一度通りすぎてしまった場所をもう一度探してみる。
するともう一度紫色が目に入った。
「これは、スミレかな…」
そのページに挟まれていたのはスミレの花だった。
この本は彼の持ち物で、彼は自分の物を他人に触られることを嫌う人種だったからこれは彼の仕業でしかありえない。
彼が普通の人より随分と大きな手でこんなに小さなスミレを押し花にしたのかと思うと微笑ましく思ってしまう。
「押し花、彼のものかな?」
猫に尋ねるようにすると猫はもう既に興味をなくしていて僕の手から逃げてしまった。
僕はもう一度視線をスミレへと戻して、その匂いを嗅いでみた。
もう花の独特の香りは失われていて、ただ本のページとページの間に挟まれていた時間の長さを感じた。
「…彼はどうしているのかな」
そう呟きながら腕に顎を乗せて瞼を閉じる。
潮の香りが強い風がさわさわと頬を撫でる。
彼がこの風を嫌いだと言っていたことを思い出した。
随分と前のような気もするし、つい最近のことのようにも思う。
ただ言えるのは、彼が出て行く前の話だと言うことだ。
どうして愛という言葉があるのだろうか。
そう尋ねてきたのは彼で、僕は読んでいた本から顔を上げて彼を見た。
「悪い、愚問だったな」
彼は困ったように笑い、何でもないと軽く手を振る。
「いや、愚問だとは思わないよ。ただ、君がそういう事を言うとは思わなかっただけだ」
「そうだよな、俺らしくないよな」
「そうだね、君らしくはない。どうしたんだい?君が愛の話をするなんて」
僕は彼の話が聞きたくて読みかけていた本に栞を挟んで閉じてしまった。
「何でもないと言っても君は俺から聞き出すつもりなんだろう?本を閉じてしまっているし」
「そうだね、この本よりずっと興味深いから」
「そうかな」
「そうだよ。ねぇ、続きを話して」
僕は彼に続きを強請り、彼はしぶしぶ口を開いた。
愛なんて使い古されている言葉、知っているつもりだった。
けれど彼の話を聞いているうちに、段々と見失いはじめ、最終的には愛なんて何を指すのか分からなくなった。
彼は僕とは反対に答えを見つけたようで、最後には僕に愛していると言った。
「ごめんな、でも愛しているんだ」
彼は俯いた僕前髪をかきあげた。
その手はとても優しくて、まるで壊れものに触れるような手つきだった。
そこで目が覚める。
額の髪を上げたのは彼の手ではなくて、窓から入ってきた風だった。
愛なんて言葉がなければ今でも一緒に居られたのだろうか。
傍に並んで彼はコーヒーを、僕は紅茶を飲みながら微笑んでいられたのだろうか。
彼が僕に触れることを許し、僕もまた触れることが出来たのだろうか。
あの言葉を言われる前と後ではどうしてこんなにも言葉や行動の重さが違うんだろうか。
「ずっと愛しているよ」
彼は立ち去る前にそう一言だけ残して行った。
僕は頷くことも否定することもせずに本の中へと逃げてしまっていた。
だから彼が最後にどんな表情をしていたのか知らない。
彼が立ち去ってから季節が変わり、僕はようやく最後に彼がどんな表情をしていたのかが気になるようになった。
窓の外に見える庭が僅かに色づいていたのを見つけて、あぁ、春なのかと思う。
彼が一番好きな季節だ。
去年の春も、確か、庭に沢山の花を植えていた。
大きな体を丸めて、一生懸命色とりどりの花を植えていた。
僕は庭には一度も手を付けたことないから、彼が植えていた花が今年も咲いたのだろう。
にゃあと猫が鳴いて、玄関の方へと走って行く。
「おかしいな、あの猫は彼以外の誰にもに懐いていないはずなのに」
僕は顔を上げて椅子から降りて猫の後を追い掛けた。
猫はドアの前で座りながら尻尾を揺らしている。
「誰か訪ねて来たのかい?」
僕の質問に頷くように猫はまたにゃあと鳴く。
「さぁ、開けてあげようか」
ドアを開けたら両手いっぱいの花を抱えながら彼が「ただいま」と言うことなんて予測も出来ずに僕はそのドアを開いた。