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ねじけガマ
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novelistID. 45515
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霞丹前

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常識のなかろう処に住むと信ずる人間は、また常識を知らないと自覚するに至るのだが、それが言葉を転じて非常識となり得るかといえば、それはまた別の問題である。まさに矛盾。しかし、人のはらむ矛盾とは概してこんなものである。

 さて、前置きはいいとして、ここに一人の老人がいる。どんな人となりをしているかと問えば“どてら”であると皆は答える。秋から冬、春口にかけて、愛用と思しき“どてら”を着ていることが多い為である。“どてら”とはつまり丹前のことである。それゆえ、皆からは『タンゼンさん』とか『タンゼンお爺』だとか呼ばれている。その名を知らぬものはいないながら、名前ほど実態を知るものはいない。気散じの好々爺とみる向きもあるし、ただ年の喰った怪漢だと断じて判ずる者もいた。何故かといえば、この老人が人の目に付かぬほど神出鬼没を極めているからである。仙人でもあるまいし、丹前ひっかけ霞のように湧いて出ては、そよ風よろしく「青年、自識を開き給えよ」などど空を掴むようなことをいう。そのくせ、大してのたまくことなく、爽やかさに戯れて去ってゆく。そんな後ろ姿に、誰がいったかは知らないが“霞丹前”と名がついた。

 老人の、自然を見ずして本質はないと語る処は甚だ玄人はだしであるのだが、それがいわゆる霞丹前たる、いかがわしさの本源でもあった。奇怪であるとすれば、まさに人後に落ちない人物であった。
 語る処はまったく真理を外れないものに違いないのだが、その風貌の発するいかがわしさが物の全てを引きずって、接する人からすれば「馬鹿も休み休みいってろ」となる。そこが実に惜しい。いや、それがまた“惜しい”の範疇を幾ら広げてみてもタンゼン老人、いつも顔が真っ赤な処も手伝ってか、まったくハマる気配もない。今日もどこかで駆けつけ一杯やってきたようである。「吾には年金という魔法がある」などと陽気にのたまう。自分の汗水であるとは言わない処が、人柄といえば人柄であった。そして、タンゼン老人は何事にも自然派であるらしい。肩口にテントウ虫が張り付いていてもお構いなし。シンクロニシティがどうのこうのということもない。羽虫の精霊のように白く飛ぶ綿を従えて現れても、ただ人の笑いを誘うのみである。犬が電柱にかけ損なった残物が足先を濡らそうとも、知らん顔で毛むくじゃらの顔を凝視し、鼻の具合をもってして「メスじゃ」などと断言する。飼い主が即座に「オスですけど」と訂正しても「まぁ そういうこともあるじゃろな」とまるで意に介さない。物おじのない、かなりの自然派である。犬が片足上げて電柱を相手にしている処を見ただけでも何か判りそうなものだが、タンゼン老人、世間一般に流布する当然顔した常識なんてものには一切 組みしないのである。さらにいえば、観念的情報力過多の現代には、折り合いすら持っていないのであった。

 ある時のこと、タンゼン老人行きつけの居酒屋で、この風変わりな市井人がどんな死に方をするかで盛り上がったことがある。普通に考えれば、これほど不謹慎なことはないのだが、酒肴の席ということもあってか、それは暫く酒人たちの関心を呼んだ。そのなかの一人が言った。荒野の獣が死に及んで森へと姿を隠すように、老人もその時が来ればいずこかへ姿を消すだろう、と。これには賛否が割れようである。喧々囂々、様々な意見が飛び交い、また酒の方もそれにつれ大いに進んだ。タンゼン老人はこの席に途中から交じったのだが、皆の立ち回りを暫くほくそ笑みながら聞いていた。そして、頃合いを見計らって、盛大なる座の中央へと揚々乗り出すのだった。立ち上がりざま皆の視線を引きつけると、並々と注がれたコップと高々と掲げ、「吾は酒屋の角に頭をぶつけてお陀仏じゃ」と叫んだのである。この出来事が酒興をさらに盛大にした。その日以来、タンゼン老人は年金の魔法を使わなくとも酒が飲めるようになったのである。

 タンゼン老人の酒のたしなみ方は静かなものである。酒が入り、いい塩梅になると気味よく歌を口ずさむこともあるが、大抵は静かなものである。静かにしていて人の話を聞くことが好きなのである。聞いている話に為にもならない冗句をはさんで楽しむのであった。
「お前はすぐそうやって知った風なことをいう。理屈はいいんだよ。肝心なのは感じることだ。心だ心、心で感じること」 なんていっている客に、碌に話も聞いていないことも構わず「あんた それ一理あるよ」などと茶々を入れる。連れの客は腹立たしい顔をして何やら息巻くのだが、タンゼン老人は一向に構わない。その後もこの老人を半ば話の輪に入れつつ話題は進むのだが、どこそこのバッティングセンターはよく当たるだとか、大通りを少しそれた処のクラブには美人がよく来るだとか、先に言えよ、だったらそこに行ったほうがよかった、などと話は取り留めもない。タンゼン老人は、どうやら都会の喧騒にまみれて遊んで来たあとらしいと見当をつける。

 それにしても、楽しく遊んできた割に、この二人の眼下にははっきりと疲労の色が見てとれる。タンゼン老人は、都会にはそうまでして遊ばなくてはならないことがあるかと、妙な気で勧められた酒をあおる。都会で遊ぶ心理などこの老人には判らない。現代が抱えるちょっとした悩みかも知れん、などと考えるのみであった。
 都会の好奇がかもす享楽と心地よく帰宅したはずが、何故か一緒に頭を疲れさせるだけの不愉快な疲労を持ち帰っている。そんなことはよくある。遊び方を間違えたと思える間はいいとして、一旦、虚しさを覚えてしまえば、途端に興がさめ、残るのは拭い去れない疲労感。そんなことと折り合いをつけて生活している人はどれほどいるだろう。タンゼン老人の遊びは現代のそれではない。いたって単純なのである。難しいこととなると、観念は観念するに限るなどと意味の判らないことを口走り、場を興ざめさせることしばしばなのだが、それは誤魔化しついでに茶化してみただけのもので、何か意味があるなどと、間違っても勘ぐる人間はいない。ましてや酒の席である。
 何度も言うようだが、タンゼン老人は自然派である。自由な自然派である。酒が進んでいても酔い潰れることはなく、いよいよ詰らないと思えば帰るし、楽しく感じていれば、それだけ座に戯れる。何もこだわる処がない。それはもう、あっさりしたものである。こうしている間に今日も早ご帰還の様子である。丹前ひけらかし、ひょいひょい歩くタンゼン老人に酒人たちはそれなりに敬意を示す。声を掛ける者もいれば、目線を送るだけの者もいる。当然、関心なく酒をあおる者もいる。その逆に、酒を勧めて足止めしようという者もいる。だが、大半はタンゼン老人の頭越しに酒を注文するだけであった。こうして、タンゼン老人は市井の仮宿から、もと居た霞の住処へと帰ってゆくのである。
作品名:霞丹前 作家名:ねじけガマ