雪国の梅花
4
集落にたった一軒、花屋がある。その前を通るとウタが足を止めた。
「ちょっとまって」
水を張った青いバケツに、梅の枝が差し入れられている。どの枝も、濃い桃色の花を咲かせていた。
「おばちゃん、この梅の花、随分早いね」
おばさん、と呼ぶには年齢が上がりすぎた彼女は、エプロンで手を拭きながら店の入り口に顔を出した。
「それは農協センターで買い付けてきたやつだっけよ。飾り付けなんかに使うやつで、あったけぇところでなった梅でさ」
「これ、一本ちょうだい」
おばさんは「好きなの選びな」とウタに言い、ウタは真剣に枝を見比べて、その中から一本を選んだ。どの枝に咲くものよりもずっと色が濃く、そのうち熱を持って落ちてしまいそうなほど熟しきった花を咲かせている枝だった。
お金を払い、裸のままの梅の枝を受け取ると、私へ向けた。
「これは俺からのプレゼント。って言っても、家まで持って帰んなくていいよ。その辺に捨てちゃっても構わない」
自嘲気味に笑うウタを見て、私も少し笑った。
「ありがと、ウタ」
今度は私から手を握った。
消火栓の赤い箱は塗り直され、サビだらけだった当時の面影はない。幼い頃、道に迷ってもこの消火栓を右に上っていけば祖母の家がある、と覚えていた。二人が目印にしていた消火栓だ。
どちらからともなく手を離した。手の平から温もりが失せていき、胸の奥から心臓を引っ張られているみたいに、痛くて苦しくなった。
いつまでも、手を握っているわけにはいかないのだ。
「ウタは、いつ帰るの?」
「明日仕事だから、今日の夜には兄貴一家残して帰るよ」
「そっか」
一歩一歩踏みしめる毎に、二人の時間に終わりが近づく。無意識に歩幅が狭くなり、距離ができてしまうとウタが立ち止まる。
「おーい」
彼の声で目を覚ましたかのように、普段の歩幅で歩き始めた。二人の時間もそれぞれの人生も、いつかは終わりを迎える。その時に後悔をしないために、二人はお互いの過去に蹴りを付けたのだ。前を向いて歩かなければと、枝を握る手に力を込めた。
「ねぇウタ、この木さ、雀のところにお供えしちゃだめかな?」
彼は目を細めて「いいんじゃない?」と優しく微笑んだ。御霊燈がさがる玄関には向かわず、建物の横にある通路から裏庭の畑に出た。
隅に一本だけ、梅の木が植えられている。まだ木の根元には雪が深く積もっていて、花が開くにはもう少し時間がかかるかも知れない。でも着実に、その先端は赤みがかり芽吹いている。
あの時ウタが掘った穴の場所を思い出す。濃い桃色の花をつけた梅の枝を、誰も踏んでいない真っ白い雪にゆっくり、挿した。まるで雪に滴る血液のように、桃色は限りなく赤く映えた。
しばらく合掌して顔を上げると、ウタも同じように合掌していた。
その夜、ウタは父の車で駅に向かい、新幹線で帰っていった。次に会う頃にはシワだらけだね、とお互い笑って手を振った。
翌日、ホテルまで迎えに来た父の車で祖母の家に向かった。ひと足先に到着していた母は私に気付くと、控えめに手招きをした。
「何、買い物?」
喪服にシワがつかないように注意しながら、母が座る横に正座した。母は思い詰めたような表情で動かない脚をさすりながら少し時間をおき、ひとつ溜め息を吐いた。
「光太、今日から入院なんだって」
「は?!」
素っ頓狂な声を閉じ込めるように口を抑えるが、激しく拍動する心臓に突き動かされて見開いた目は、閉じない。
「脾臓ってところに癌があって、見つかったときにはもう手遅れで……ここに来るまでもずっと入院してたの。千里にだけは内緒にしてくれって頼まれてたから言えなかったんだけど──」
母の姿は輪郭を失い、よく見えなくなっていた。あやふやな視界のままコートも着ず玄関へと走り、昨日ウタが履いていたゴム長に足を突っ込むと飛び出した。
梅の木まで走った。ゴム長が雪に埋もれて足だけが飛び出し、ストッキングの足のまま雪に入り込んでしまったけれど、痛くなんてなかった。
内臓を潰されるような心の痛みとは比べ物にならなかった。
──自分の感情を胸に秘めたまま死んでいくのって、嫌だなって思ったんだよ。
ウタの言葉が、ウタの声で、梅の木の根元から聴こえる気がした。そこに立ち尽くし、双眸から流れ落ちる涙が雪に吸い込まれる様を上から眺めていた。
最期だと分かっていたのなら、もっと話がしたかった。もっと伝えたかった。もっと手を握っていたかった。もっともっと好きだと言って、抱きしめて欲したかったよ、ウタ──。
木の根元にしゃがみ込み、すすり泣いた。誰も来ない庭の片隅で震えているのは、寒さのせいではない。抑えようにも抑えられない涙は嗚咽とともに体外に排出され、雀の元へと吸いこまれていく。決して目を覚ますことのない、雀の元へ。雪から伸びる、血液のように濃い色をした梅の花はいつまで花でいられるだろうか。いつまでこの冷たい雪に耐えられるだろうか。
ウタは、いつまで耐えられるのだろうか。
祖母の葬儀が始まるまで、私は暫く梅の木の傍から動けなかった。