雪国の梅花
2
「しっかし今年の雪はしぶといなー」
土汚れが染み付いた祖父のゴム長靴を履いて、道のど真ん中を歩き始めたウタに、急いでついていく。滑って転ばないように、竹馬に乗って歩いているような不格好な歩き方になってしまう。これだから都会の人間は──、いつだったか、祖母に言われたことがあった。
「もう四月もすぐそこだっつーのにこの雪、いつ溶けるんだろう」
雪は路肩に寄せられ、腰の高さにまで積み重なっている。道の片側に掘られた用水路では、捻りすぎた蛇口の水みたいな轟音をたてる雪解け水が、下流へ下流へと流れていく。
「一応、雪解けは始まってるんだね」
私の言葉に、ウタは含みを持った笑みで視線を寄越す。まるで私が顔を伏せることを予期していたかのような、余裕を持った笑みだ。もちろんその予想通り、すぐに顔を伏せたのだけれど。
「もうちょっとこっち歩けよ。そっち凍ってるから」
道の端を歩いていた私のコートの袖を引っ張ると「こんな時にブーツかよ」と言ってまた笑う。手持ちのブーツの中では地味でシンプルでヒールが低い物を選んだけれど、雪国の景色には到底似合うものではない。ウタが履いたゴム長を見てそう思う。
道幅がわずかに広くなった道路に出た刹那、雲間から日差しが振り注ぎはじめた。霧でできたカーテンのような淡い白さが、淡さには見合わない強さで建物に、雪に反射する。
「モーセの十戒みたいだ」
ウタの言葉に首を傾げた。
「何それ」
「モーセの十戒、知らないの?」
目を丸くして、無知を訝しむ顔で私を見ている。
「知ってるよ。そうじゃなくて、どうして今のこの状況がそれなのかってこと」
ウタはつむじの辺りをぽりぽりと掻きながら、顔をひしゃげてみせた。
「知ってる言葉を言ってみたかっただけですよー」
あの頃と何も変わらない、ウタの笑顔がそこにあった。でもきっと、決定的な何かが違うのだろう。「何か」には、気付きたくもない。
母から預かったエコバッグから、携帯の着信音が響く。手を突っ込むと指先に当たったストラップを絡めとり、液晶を見た。ほんの刹那、通話をタップするべきか悩んでしまった。夫からだった。
「もしもし──」
新幹線での参列となると、夫と子供二人を連れてくれば交通費だけでもバカにならない。宿泊も、急遽駅前のビジネスホテルを取ることになり、節約のためにも家で留守を任せている。
通話を終えるとマナーモードに切り替え、鞄の中に落とした。
「旦那さん?」
「うん。下の子が熱を出したとかで。今すぐ帰れるわけじゃないから、電話されたって困るんだけどね」
何となく、目を合わせられなかった。一瞬でも夫との通話をためらった罪悪感のせいかもしれない。道のずっと先に連なる白い山の稜線を見ながら歩いた。
「ちぃがお母さんやってんのかぁ」
「そんなこと言ったらウタだって、お父さんやってるでしょ」
恐る恐る視線を向けてみると、ウタは両手をぱちりと合わせて「だよね」とおどけてみせる。少しだけ笑って、少しだけ頬も緩む。それなのに。
「ちぃは、結婚式は挙げたのか?」
私へ視線を結んだまま彼は、眩しそうに細かな瞬きをした。突然の問いに、口を開いたまま硬直してしまった私の返事なんて待たずに、更に重ねられる問い。
「ウェディングドレス、着たのか?」
ゆっくりと確実に、濡れた足元に目を向け、もう一度顔を上げた。
「着た、けど」
やっとのことで紡ぎ出した声に、ウタは口元を引き締めるようにして口角を引き上げると、鼻から息を抜くようにして笑う。目尻には小鳥の足跡。
「ちぃは顔が小さくてスタイルがいいから。きっと綺麗だっただろうなって」
私が赤面する瞬間をコンマ秒単位で計算していたかのように、絶妙なタイミングで微笑みかけられた。背けた顔の行き場をなくす。
「普通、です。誰が見ても平均的な花嫁さんだったもん。ウタの奥さんだって──綺麗だったでしょ?」
浄化されたくて真新しい雪解け水に向けていた視線を、すっとウタの方に向けた。彼は山の起伏を辿るように視線を上下させ、結んでいた口を静かに開く。
「綺麗、だった。小さい頃から一緒にいたのに、こんなに綺麗だったことに気付かなかったのかって、びっくりした」
のろけちゃって。
ひと言返せばそれでよかったのだろう。しかしその言葉が口から溢れることは終ぞなかった。
ウタは夫として当たり前の感想を言ったまでだ。幼い頃から一緒に過ごした幼馴染みが、いつもと違う、純白のサテンやパールに彩られた綺羅びやかな衣装を身にまとったら、それはそれは綺麗だっただろう。そんなことは分かっている。
分かっているけれど、聞きたくなかった。できれば今すぐに、結婚式の写真をウタの目の前に突き出して「幼い頃からあなたを慕っていた千里の、一生に一度の晴れ姿」と言って自慢したい。そしてひと言でいい、ウタに「綺麗だね」と褒めてもらいたい。
聞きたくなかったくせに、自分から訊ねてしまったのだから後悔するのもおこがましい。タイミングよくコンビニエンスストアに到着し、雪よけのために高くなった階段をのぼると店内に入った。
「お、これこれ、ちぃが好きだったお菓子だよな」
ウタが手にしていたのは、梅味のお煎餅だった。昔から好きで、祖母の家でもウタの家でも、私のために必ず用意されていた。それをウタが覚えていてくれたことを知ると、胸の中がさざなみのような音を立てる。ウタの記憶容量の中に、私が僅かでも空間を持っていることが嬉しくて、でもどこか苦しかった。
「ウタが好きなのは鈴カステラだったよね。でも、売ってないねぇ」
棚を端から端まで見渡すと、背中側で「あったあった」と声が上がった。鈴カステラの袋が少し乱暴にかごへと投げ入れられる。
「自分たちが好きな物を買ってどうするんだろうね、お茶菓子買わないと」
大袋の菓子が並ぶ棚からいくつか手に取り、ウタが持つかごに放り込んでいく。そのかごを床に置いて菓子を端に寄せたウタは、ペットボトルの飲料を三本、空いたスペースに入れた。パズルみたいにぴったりだった
「あぁ、飲み物忘れる所だった」
「ほれ、メモ」
ウタが私に見せたメモには、母の字で「お菓子、ジュース」と書かれている。
「お菓子とジュースだけなら、メモなんていらないのにね」
「でも今ちぃ、飲み物忘れてただろ」
下唇を噛んでウタの方を見ると、ウタは「その顔」と言ってカラリと笑う。
「そうやって、下唇真っ白にするんだよな、ちぃは。変わんないな」
かごがいっぱいになると、ウタは新たな空のかごを取りに行った。