怪談
「この道を少し行った所に桜の名所がございます」
そう言うのは茶屋の主人。初めこそ、茶を一杯頂いたらもう少しで発とうと思っていた2人だったが、主人の熱心な薦めに春の温かな気分も加わって、
「せっかくの小春日和。花見に興じて罰が当たることもないでしょう」
と久々の行楽へと足を向けた。
茶屋から出て一本道をずいずい歩いていくと、曲がり角の開けた場所にそれはあった。何とも見事な桜。見上げるほどの大きな木に、びっしりと満開の桜の花が咲いている。その下では村人たちが思い思いに酒盛りを繰り広げていた。
2人はしばらく見惚れて立っていた。時が経つのも忘れてしまいそうだったが、先に我に返ったのは半兵衛の方だった。
「しまった。さっきの店に忘れ物しちまった!」
道を引き返す半兵衛。後ろ姿を見つめる勝介は、彼の帰って来るまでが手持ち無沙汰だと、木の下に座って待っていることにした。
近付いてみると思ったよりも大きな木で、幹を抱え込むのにも1人では到底無理そうだった。勝介はどっかり腰を下ろすと体をその太い幹に預け、村人たちの会話を時折盗み聞きなどしながら、がはがは笑っている彼らの横顔にちょっとした安堵を覚えていた。
ここまでの旅路、行く先々で戦乱の爪痕を目の当たりにした。都市ではいまだに戦禍生々しく、農村は悲惨なほど疲弊していた。働き手は兵士に駆り出され、戦が終わっても行方が知れない我が子の帰りを待つ親、愛する人を待つ娘もたくさんいる。そんな中にあって、この村の人達は幸せそうだった。彼らが戦という現実を知らないわけではないだろう。非情な乱世の合間に訪れた一時の春を、必死に謳歌しているのだ。そう思うと勝介の口からは自然に笑みがこぼれた。
「お一人で寂しい方ね」
言われて振り向くと、隣には若い女が座っていた。
「いや、その…、連れが帰ってくるのを待っていて」
よく見れば美しい女なもので、勝介はいやにどぎまぎしてしまった。女は勝介の方を向いて小さく笑った。彼女は持っていた酒を勧めてきた。勝介はおちょこにそれを注いでもらうと、一気にぐいと飲み干した。
なるほど、花見の酒はうまい。
今度は勝介の番。おちょこを彼女に渡し、それに慎ましやかな量で酒を注いだ。
「私もねえ、待ってるんだけどねえ…」
酒を手に女は遠い目つきでそう言った。勝介はその向き直った横顔を見つつ、言い知れない哀愁を心に感じていた。この女もまた、戦乱の犠牲者なのだろうか。
そうしたまま、女の透き通った目を見たまま、すでに幾千年もが過ぎたような気がした。
「なんだ!こんな所に陣取りやがって」
半兵衛の声がした。振り向くとやはり半兵衛だった。腕に包みを抱え、また少々息が上がっているようだった。急いで来たのだろうか。
勝介が向き直るとそこにいたはずの女はいなくなっていた。元からいなかったかのように、跡形もなかった。おちょこだけはその場に残っていて、さっき注いだ酒がそのままになっており、その上に桜の花びらが一枚浮いていた。勝介はおちょこをのぞき込んだ。花びらの向こうに自分の顔が映った。
「どうしたんだ、その酒は。どっから持って来た?」
確かに酔いは残っているのであった。