ラクガキ帳に恋してる
放課後に現れる不思議な時間。誰もいなくなった教室で私は、小説とも童話とも付かない物語を、受験用に購入した大学ノートに落書きしている。
そんな習慣が身についたのは、今年度のクラス替えからだった。
『小説が好きなの。先生に物語を書いて持ってきてくれた人のお願いを聞いてあげるわ』
冗談交じりの自己紹介だった。そんな譫言をマジメに聞いている人はいなかったと思う。でも、あの時の私は幼かった。たとえわずかな可能性でも、あるのなら信じてみたいと思ってしまったのだ。
あの人が私の担任になってから、もう半年が過ぎた。
「ねえねえ、木宮さん。今日も書いているの?」
彼女を思い出していると、まるで私の想いが伝わったかのように、本人が目の前に現れた。去年、先生になったばかりの、スーツが板に付いていないその人は、子供みたいに豊かな表情で笑う。
「また先生ですか。人のものを勝手に見ないでください。女の子のプライバシーを覗くなんて変態ですよ」
「いいじゃない。だって、あなたの担任なんだもん」
「筋が通っていません」
「とにかく見せてよ~」
すぼめた唇には大人っぽくグロスが塗られている。先生には似合わない。先生は化粧なんて必要ないんだ。肌のきめなんて、女子高生のそれよりも遙かに細かい。
「嫌です。それより、見回りに来たんじゃ無いんですか?」
「うん。でも、教室に行けば、きっと木宮さんがいると思って、早めに職員室抜けて来ちゃった」
私はこの人の前にいると、時々自分というキャラクターを見失ってしまいそうになる。奥歯を噛んで、にやけてしまいそうな顔を強引に修正した。
「馬鹿なこと言ってないで、早く仕事に戻ってください」
「やだ。もっとかまってよー」
「嫌です」
「けち」
「子供ですか、あなたは」
先生が不意に微笑んだ。
「木宮さんは、早く大人になりたい人?」
「先生はなりたくないんですか?」
「なりたくないな」
先生は中腰にしていた体を起き上がらせて、ビル群に沈んでいく夕日を見ていた。
「先生はね、ずぅっと子供のままがいいなぁ」
「どうして、ですか?」
「うん……。人ってね、大人になっていく過程で、色々なものをなくしちゃうの。その中には大事に取っておこうと思っていたものも入ってる。子供のままだったら、手放さなくて良いものも、いつか手放してしまうんだぁ」
「でも、それが大人になるって事なんじゃないんですか?」
「そうなのよね。時って残酷なのよね」
私には、先生の言っていることの半分しか理解できなかった。いずれ大人になってしまうということ。どんなに辛いことでもいつかは来てしまう、それは逃れられない現実。
「でも、先生は、大人になって良かったとも思ってる。大人にならなかったら先生にもなれなかったし、木宮さんにも会えなかった」
先生は言葉を切ると、ただ私の目を見つめ返してくるばかりで、何も言わない。
二人は無言で見つめ合って、数秒、
「来月、結婚するの、先生」
「…………」
一瞬で口が渇いてしまった私は、言葉が喉の奥につっかえてしまい、おめでとうございます、の一言も言えなかった。
先生は、クラスのみんなから、花束を贈呈されてとても気持ちのいい顔をしていた。おなかの中にはもうすでに赤ちゃんがいるのだという。とても喜ばしい話しだ。私もみんなと一緒に拍手をしていた。
全校生徒の前で、お別れの言葉を告げる先生は、とても誇らしそうだった。
その日のうちに、私たちのクラスには新しい担任の先生が来て、自己紹介をしていた。
放課後がやってきた。
落書き帳に書く物語が見つからず、私はただ窓の外を眺めていた。卵の黄身と卵白を攪拌させたような夕焼けの色がロマンチックで、それに照らされた町並みは、どこか遠く感じる。
かすんでいく景色に、私の胸は痛んだ。
「泣いてるの?」
「先生!?」
驚いた私は思わず開けてしまった大口を、ぴたりと閉め、頬に垂れてきた熱いものを袖口で拭った。
「ただのアレルギーです」
「そうなんだ。辛いよね」
「……はい」
先生は、私の前の席に座って、背もたれに寄りかかった。
その目を見返せずに、私はうつむく。
「今日は何を書いているの?」
「なにも」
「じゃあ、この前の物語の続き聞かせて?」
「出来てません」
「いつ出来るの?」
「出来ません」
「そうなの」
「……帰ったんじゃなかったんですか?」
「木宮さんに会えるかなと思って」
「……会えるかなって、会えたからなんなんですか」
「木宮さん?」
次第に私の被害妄想は激しくなっていった。
なんでもない先生の言葉が、ひどく憎々しく感じて、
「それならどうして結婚なんてッ」
私は、怒鳴りながら立ち上がっていた。見開いた先生の目に驚愕と、恐怖の感情が見えて、とたんに我に返ってしまう。
ともすると、私の心は堪えられないくらい、大きく波打っているのに気づいた。必死に堪えていたはずのたがが外れ、もうどうすることもできなかった。
胸が張り裂けそうになって息が苦しくなり、私は声を出して泣いた。手で目蓋を塞いでも、涙が止まらない。もう止め方もわからなかった。
「木宮さん。ごめんね」
先生の震えた声が聞こえて、温かくて柔らかいものに包まれた。優しい香りが鼻をかすめて、懐かしくなり、もはや涙の止まらない私はその中で精一杯泣いた。腰が抜けて立っていられなくなり、それでも泣いた。
いつまで、そうやっていただろう。
「もう大丈夫です、先生」
「うん」
先生の腕の中から抜け出た私は、みんなにお別れを告げたときだって泣かなかったくせして、最後の最後で涙を拭っている先生に、
「先生、おめでとうございます」
と精一杯の感謝をこめて伝えた。
――今日も放課後がやってくる。
先生が来なくなってもう久しい。それでも、私は物語を書き続けた。落書き帳の冊数も増え、今ではその管理に時間を食っているほどだ。
今は、書き始めた頃のノートを開いている。
そして、その頃の失恋に、私は浸っていた。
小さな星のお話。そこには、二人しかいませんでした。だから、誰にも邪魔されずに幸せな日々を送れたのです。
けれど、この小さな星でも、時間が進むにつれて問題が発生しました。食糧問題です。そこで、二人は人間が多く住む星に移り住みました。生きていくにはこれしか方法が無かったのです。
二人は、離ればなれになってしまいました。
もう会うことも出来ません。
一緒に笑い合うことも出来ません。
抱き合って泣くことも出来ません。
あるのは思い出だけです。
二人は、幸せなあの頃を思い出し、ほんのり目を潤ませて小さく微笑むのです。
作品名:ラクガキ帳に恋してる 作家名:rissi