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青は藍より出でて、藍より青し(前編)

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厳しい残暑も朝夕にはなりを潜め、清々しい風が辺りを吹きぬける。細長い羊羹のような長屋が密集し、ドブから立ちこめる悪臭の絶えない裏店には、そんな僅かな風さえ心地よい。
葉月の初旬、亜衣はコの字型に並ぶ長屋の中心にある井戸端で他の女房連中と一緒に、先刻求めたばかりの青菜を洗っていた。
みずみずしく太い茎には色艶の良い大きな葉がついていて、まだ野菜の目利きには慣れぬ亜衣にでも良い品である事はすぐに分かった。
裏手に住む棒手振りが朝一番に届けてくれたものだ。
「亜衣ちゃんのおかげで、みんないいものを持ってきてくれるから助かるよ。」
亜衣の斜向かいの家に住んでいる駕籠かきの女房、お連が同じように井戸端で青菜を洗いながら笑っている。
何故自分のおかげなのか、亜衣にはさっぱり分からなかったが、他の女房たちも「美人は得だねぇ。」、とくすくすと笑いあっていた。
棒手振りたちは、なんとか亜衣の気を引きたくて、新鮮なものをいの一番に売りに来てくれているのだ。同じ長屋に住む女房たちはその恩恵にあずかれるので、ありがたい事この上ない。
亜衣は確かに花も恥らうような美しい娘だった。藍色の質素な簪を1本挿したきりの地味な丸髷で、着ているのも茜色の粗末な麻の着物だったが、うりざね形の小ぶりな顔立ちをしており、唇は朱を引いたように紅く、長い睫の下で黒曜石の欠片のように煌く大きな黒目が印象的だ。そして、江戸の女なら誰もが憧れるきめ細かな白い肌を持っている。まだ17歳とあって、その表情にはあどけなさも多分に残してはいるが、それもまた彼女の可愛らしさを引き立てる一因となっているといえた。
亜衣は10日程前に芝の増上寺の裏手にあるこのお咲長屋へ嫁いできたばかりだった。
いや、嫁いだというよりは押しかけた、と表現した方が良いかもしれない。
この長屋の隅に住んでいる蒼井丈ノ進という子供相手に手習いの師匠をしている浪人者に一目惚れし、転がり込んできたのだ。
丈ノ進は見てくれこそ良いものの近所でも評判の堅物で、まだ25歳と若いのにこれまで浮いた話の一つも無い男であったから、ある日突然、見目麗しい娘と一緒になり、近所の連中は、それはそれは大いに盛り上がったものだ。
照れくさいのか、説明をしぶる丈ノ進を皆で囲み、その口を無理やり割らせたところによると、増上寺へ参詣に来ていた亜衣がならず者に絡まれて難儀しているところへ丈ノ進が通りかかり、助けてやったのが縁だという。
駆け落ちゆえに実家の事は詳しく話せないとの事だが、亜衣は大身の武家の娘で、そんなお姫さまが町中に住まう浪人者などと一緒になりたいと願っても叶うはずがなく、それゆえ思いつめて屋敷を勝手に飛び出してきたらしい。
幸いなことに、今のところ実家の者にはこの場所も見つかっていないらしく、二人は近所の連中に冷やかされる以外は、平穏に暮らしている。
「あら・・・」
青菜を洗っていた亜衣の手が不意に止まった。
彼女の傍ら、自宅の前で木刀を素振りしていた若い男がそれに気づき、どうした?、というように小首をかしげた。
夜明け頃から、もう半刻ばかり剣を振っているので、いくら涼しくなってきたとはいえ、額にはうっすらと汗をかいている。
彼が亜衣の夫の丈ノ進である。
男は穿き古した茶色の袴に白い刺し子の筒袖を着ていた。身の丈5尺8寸(約175cm)の均整の取れた長身で、月代は剃らず、総髪を後ろで一つに結ったものを垂らしており、鼻梁が高く、眉の濃い、苦み走った精悍な顔立ちをしていた。目元が涼やかで、そのまま歌舞伎役者が務まるかと思うほどに鋭い眼光をしている。
亜衣は青菜の上に乗っていた小指の節1つ分くらいの大きさしかない小さな巻貝を夫に向かって嬉しそうに指し示した。
「見てください。このようなところに小さなでんでん虫がついておりました。」
「・・・だから何だ?」
亜衣の弾んだ声とは裏腹に、丈ノ進の声色は冷ややかだ。新婚さんのやりとりをからかいたそうな女房連中の笑いを含んだ目線があるから余計かもしれない。
深窓で育った亜衣には、カタツムリが青菜の上にいるくらいでも珍しくてたまらないのかもしれないが、丈ノ進には何の面白みも無い話だった。
「何だ、と言われましても、ただそれだけでございますが・・・かわいいではありませぬか。」
指先でつん、とつっつくとカタツムリは長い目を慌てて引っ込めた。亜衣にはその所作が愛しくて堪らないようである。
・・・馬鹿らしい。
丈ノ進は仏頂面で、亜衣の差し出した青菜の上から巻貝をつまみあげる。
「こんなものに気を取られていると、いつまで経っても朝飯ができあがらぬぞ。」
ことさら素っ気無く言い捨てた丈ノ進が、カタツムリをぽい、と適当に投げ捨てると亜衣は小さく悲鳴をあげた。
「何をなさいますか、ここでは餌が無くて死んでしまいます。」
「知るか、そんなもの。」
不機嫌そうに鼻を鳴らし、丈ノ進は何事も無かったかのように再び素振りを始めてしまった。
その一太刀一太刀が、非常に重い。どっしりと腰の据わった、見事な剣さばきだ。
風を切る鋭い羽音が、びゅんびゅんと鳴り始めるのを聞きながら、亜衣は小さくため息をついた。
本来の丈ノ進はどんな小さな生き物も慈しむ、心根の優しい男である事を亜衣は知っているが、ここ2、3日はひどく機嫌が悪いのだ。
理由は恐らく自分にある、と亜衣には察しがついている。
丈ノ進が断片的に語った馴れ初め話だけでは納得しなかった女房連中にその翌朝取り囲まれ、より具体的な内容を亜衣が漏らしてしまったのだ。亜衣としては、ここで暮らす以上、なんとか女たちの輪に入りたい一心で、つい求められるままに話してしまったのだが、それは確かにかなり恥ずかしい内容だったので、丈ノ進が臍を曲げるのも無理はないと反省している。しかし、何度か謝っているのに、丈ノ進は「機嫌など悪くない。これが普通だ。」、と言い放ち、聞く耳を持ってくれない。
亜衣は地面に落ち、殻の中にすっかり閉じこもってしまった小さなカタツムリを白い指先でそっとつまみあげた。辺りをぐるりと見回すが、日当たりの悪い裏店には、カタツムリの住処になりそうな葉陰など無かった。
あと数日で放生会(ほうじょうえ)、功徳のために生き物を川や池に放すお祭りがあるくらいだ。命あるものは大切にしてやらねばならない。
「どこか草のあるところへ逃がして参ります。」
「朝飯はどうする?」
「すぐに戻りますから。」
不満げにじろりと睨まれたものの、亜衣はやはりこの小さな生き物を見殺しにするのも憐れと思い、指先でつまんだまま、長屋の裏木戸から出て行った。
ちょうど一町ほど先に増上寺がある。将軍家の菩提寺でもある増上寺には、そうやすやすと入り込めないが、その脇にある小さな神社になら町の者でも足を運びやすい。そこなら草むらがあったのを思い出したのだ。