赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (26)
「さて。それでは私たちは安心をして、
これでお暇(いとま)などをいたしましょう」
市の舞い姿を見届け、ねぎらいの言葉を終えた春奴が
清子の顔を振り返ります。
『え?』突然のひとことに、清子が思わず自分の耳を疑います。
「別に、驚くにあたりません。最初から決まっていたことです。
そばに小春がいて、市さんが付いていれば、
清子にはそれだけで充分でしょう。
なに、時々様子を見に参ります。
では市さん。この子のことは、よろしくお願いいたします」
当たり前です、あたしだってこれでも忙しいんだから。
と春奴が笑っています。
「大丈夫。大船に乗ったつもりで会津に居なさい。
すべてのことは、前もって春奴姉さんからはすべてお聞きをしております。
存じてないのは、ここに居る小春と、当の清子ちゃんの2人だけでしょう。
東山温泉の、粋なお座敷の空気などをたっぷり吸わせておきますので、
お姉さん方のお2人は、安心をして湯西川へお帰りください。
それにしても清子という本名のままでは、お座敷に
連れて行くに格好がつきません。
なにか良い芸名を予定してないのですか、お姉さん」
「予定が有るには有るが、
ここでいま披露するわけにはまいりません。
市。内緒ですょ。ちょっと、こちらへいらっしゃい」
春奴が市を手招きします。
『耳を』と誘われた市が、春奴姉さんの膝へ色っぽく手を置いてから、
上半身をあずけるような形で傾け、すっと小耳を口元へと運んでいきます。
『いちいちの所作が、癪にさわるほど色っぽいわね、この女狐ときたら』と
春奴が、軽く切り込めば
『最近は少し太めですので、狐ではなく、女狸になりました』
と市が切り返します。
(大きな声では言えないのには、実は、ワケがある。
引退をする予定の半年後に、
この子に私の、春奴を譲ろうと決めております)
(え!あんた。引退すんの・・・・
ということは、この子はあんたの2代目として、春奴を名乗るわけかいな。
そらまた、えらい入れ込みと、決意ぶりやなぁ。)
(そういうことや。あんじょう頼むで。みんなにはまだ内緒のはなしや)
(当たり前や。そないな重大な話を、ここで暴露なんかできるかいな。
ウチには普通の子にしか見えへんけど、姐さんには、
一体何が見えたんや?)
(無限の可能性や。うふふ・・・・
けど、今んところは誰にも見えへん。
この子の座ったところをよう見てみい。
ピシッと座った時に、女が持っているすべての清楚さと
艶やかさの両方がある。
ようするに、淑女と女の魔性の両方を、最初から持っているのさ。
たぶん、生まれながらの、先天的な芸妓だよ。この子は)
「あら、そうなんどすか。
そら、披露はできませんわなぁ・・・・はい。納得をいたしました。
では清子には、市が一文字上げて、ここにいる1ヶ月のあいだは
市花、ということで過ごしましょう」
「あのう。なにゆえに本名では、いけないのでしょうか?」
「お座敷には、すべからく心得というものがございます。
芸妓は決して本名を名乗りません。
お客様もほとんどの場合において、「お兄さん」とお呼びいたします。
壮年のお客様は「おとうさん」とお呼びする場合もございます。
またお座敷の全員が「おにいさん」ばかりでは、会話が成立しませんので、
佐藤さんは「さーさん」。高橋さんを「たーさん」とお呼びします。
少人数のお座敷が多かった頃に生まれたお座敷の習慣です。
お客様のプライバシーを守る為に、
このような呼び方をするようになりました。
お隣のお座敷や廊下に会話が漏れても、話をしているのが誰なのか、
特定出来ないようにとの、芸妓たちの配慮です。
芸妓たちが、お客様の名前を覚えられないからではありません」
と、流暢に説明をする市の言葉を引き取って、春奴がその後に続きます。
『そうだねぇ。
ここでお前は、ひと月を過ごすことになるのだから、
立ち去る前に、お前に、お座敷遊び心得の5箇条を教えておきましょう。
芸妓は芸を磨きますが、お座敷での心得を磨くことも大切です。
すべてのお客様が、お座敷での過ごし方を心得ているわけではありませぬ。
そうしたお客様たちにくつろぎを与え、楽しんでもらうために、
芸妓は場の空気を常に整え、お客に、お座敷の心得などを
それとなく教えこみます。
自分の芸を育てるように、お客様も育てていかなければなりません。
1つ目は 踊りや小唄などが始まったら、黙って聞くことを教えます。
芸を売るのは芸者の仕事ですが、芸を見ることはお客さま自体の礼儀です。
2つ目は 芸者衆を「お姐さん』と呼ぶことです。
先輩芸妓のことは、お姐さんと呼びます。
たとえ、50歳であっても”おばさん”などと呼んではいけません。
100歳でも”お婆ちゃん”とは呼びません。
現役でいる限りは、お姐さんと呼びつづけます。それが芸者です。
3つ目は お座敷遊びには、綺麗な靴と新しい靴下をはいて
お見えになることです。
お座敷に上がる時は、
身を清め、新しい紺色の靴下を履くのが通の心得です。
同じように芸妓もまた、身を清めてからお座敷に望みます。
4つ目は お座敷ゲームというものは、羞恥心を捨てて楽しむことです。
芸者衆からお座敷ゲームに誘われたら、童心に帰り”ノリの良さ”で
勝負をいたしましょう。
花柳界は、そこで起きたことについて、決して他言をいたしません。
ゆえに、たまには心から羽目を外してもらいたいものです。
5つ目は 粋な旦那衆を目指してもらいます。
芸者衆の三味線に合わせて、色っぽい小唄のひとつやふたつを、
粋に歌えるような旦那衆になってほしいものですねぇ。
お座敷というものは、芸妓を育てますが、粋がわかるお客様も育てます。
そのへんの繁華街や飲み屋街などと一線を画して、
花柳界が今もこうして存続をしているのは、これらの気風と
歴史があるからに他なりません」
(27)へ、つづく
作品名:赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (26) 作家名:落合順平