赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (24)
市の出身は会津高原です。
会津高原(あいづこうげん)とは、福島県会津地方の南西部にある
会津高原たかつえスキー場周辺(広くは南会津全般)を、
観光開発のために名付けられた地域名のことです。
一般的に定義されている高原のイメージとは大きく異なり、
ここでは1500m級の急峻な山々や、山地を多数含む広い山間エリアの
一帯を高原として称しています。
1970年の晩秋。この高原の中にある1軒の農家、
小沢家で半年前に家出した1人息子の市左衛門の帰郷祝いが、
盛大に開催されていました。
本人の帰郷に先立ち、トラック数台分の荷物やテレビ、電気洗濯機などと
いった最新式の家庭電化製品や、立派な桐たんすにぎっしりと詰まった
豪華な女物の衣装などが、既に彼の生家に相次いで運び込まれています。
その様子を見た隣人や招待客たちは、
「市坊は東京のお大尽さまの娘を嫁にもらった」
と互いに噂をしあっています。
やがて宴もたけなわとなります。
ステレオから流れてくる三味線の音に合わせて、1人のあでやかな
衣装の芸者が顔を隠して一同の前に登場をします。
やがて、扇を片手に、艶やかに舞いの披露を始めます。
驚く人たちがよくよく凝視をしてみると、舞っているのは当夜の
主賓のはずの市坊です。
「なんと。おらが村の市坊が、いきなり、女になった!」。
衝撃はたちまちにして、一夜のうちに麓の街にまで波紋を広げます。
子供の頃からかよわく、女の子とばかり遊んでいた市ちゃんは、
中学卒業後は土産物店に勤めながら、合間には三味線や日本舞踊を習うという
見るからに女っぽい青年そのものでした。
青年団の集団作業においても、力の弱い市ちゃんはまったく能率が上がらず
「女以下じゃ」として、男たちからは常に馬鹿にされています。
春のある日、山村でのそんな生活に嫌気がさしてきた市ちゃんは、なけなしの
5000円を持って、村から姿をくらまします。
数日後のこと。
お金を使い果たし、上野駅の待合室でどんよりと途方にくれていた市ちゃんに
通りかかった、粋な姿のお姉さんが声をかけます。
この日、久しぶりに深川を訪ねた春奴が、鬼怒川に帰る途中での出来事です。
幼い時から馴染んだ深川の花街を離れ、湯西川温泉に第2の活路を
見つけ出していた春奴が、用事を済ませて
鬼怒川方面へ戻る途中です。
「なに、くよくよしてんのさ。あんた。
その辺で、ご飯でも食べようよ。
人間、お腹がすいていると元気が出ないもの。
おや。女かと思ったら、あんた、男かい。こりゃ、たまげた・・・」
春奴が、思いがけないことを切り出します。
「あんた、芸者に化けてみないかい」。
市ちゃんの女性的傾向を、すでに一瞬にして見抜いていたのです。
2人が着いた先は、栃木県最大の観光地として
大きな脚光とともに温泉観光リゾート地化がすすんでいる、鬼怒川温泉です。
身なりを女の姿に変えた市ちゃんは、検番(芸者の管理組合)の試験に
苦もなく、すんなりと合格をしてしまいます。
春奴が名付け親となり、「きぬ奴」の名前で晴れてのおひろめになります。
立ち会った置屋の女将たちも、さすがに、市ちゃんが男であることを
見破っています。
しかし見事なまでの市ちゃんの女っぷりに「これは行ける」と
確信をもちます。
やがて市ちゃんに、女になりきるための秘訣を、
事細かに指導をはじめます。
こうして市の秘密は、何人かの女将以外に漏れることはなく、
春奴が都会から連れてきた新進の芸妓としても、売り込みが始まります。
若くて美人なうえに、三味線と日舞が上手なきぬ奴は、
たちまちにして頭角を表します。
一躍、鬼怒川温泉で売れっ奴芸妓にのし上っていきます。
ところがその年の8月に、事件が起こります。
某銀行の慰安旅行で、鬼怒川温泉にやって来た50がらみの好色の部長が、
心の底から、このきぬ奴に心酔をしてしまいます。
週末には必ず通ってくるというほどの熱の入れようになり、
やがてお定まりといえる身請けの話が、猛烈な勢いではじまります。
きぬ奴を囲った男は、彼女が欲しがる家電製品や着物を次々に買い与えます。
しかしきぬ奴は「結婚するまでは」と、決して肌を許そうとはしません。
とは言え、男の執着を避け続けるのにも限度があり、そもそもの
戸籍が男ですから結婚することなどはできません。
思い詰めたきね奴を、男と別れ、貢がせた道具や衣装を持って故郷に
帰ることを春奴がすすめます。
『あとのことは、私がなんとでもいたしますから』と、背中を見送られ
市が、故郷に戻ることに相なります。
「20歳の時の市さんは、女が見ても、
嫉妬を覚えたくらいの美しさをもっていました。
でもねぇ。苦労をしましたよ、その後の処理が。
あの、スケベな部長さんには、さんざん手こずりました。
ようやく諦めさせて、ほっとした半年後に、
市さんは今度はこの東山温泉で、
あらためての芸妓の旗揚げをしていました。
でも、そのおかげで、あたしもここにいる小春も、
その後のピンチを、なんとか切り抜けることになるのです。
助けたり、助けられたり、やっぱりあたしたちは長年の戦友さね。
本当に、面白かったねぇあの頃は。ねぇ、きぬ奴。うふふ・・・・」
(25)へ、つづく
作品名:赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (24) 作家名:落合順平