迷い子の殺害
今日の朝、玲実は死んでいた。
それを見つけたのは代々豆腐屋を営んでいる日高さんの旦那さんだと聞いた。子供代わりに可愛がっているパグの散歩に出かけた時だったらしい。浅い川のど真ん中に人が倒れてて日高の旦那さんは怖くなってその場から一目散で逃げてきたと、日高の奥さんが近所の野次馬に話しているのを通勤中にたまたま通りかかって聞いてしまった。
電車に揺られている私の顔はどれだけひどいのだろうか。
それにしても警察の人は玲実が自殺だと見ているようだが、それは本当か…。そもそも、腹部を刺し川に橋から落ちる自殺の仕方があるのか。さらに玲実が自殺する理由だってわからい。もっとも私が玲実に信用も信頼もされていなかったっていうなら話は別だが、それはないと思う。玲実がおかしくなったと感じてから一度家に泊まりにこさせた事があったけど、そのときはいたって普通、いつもどおりの玲実だった。…いや私がわかっていなかっただけなのかもしれない。じゃあ、いつからだったんだろう。
考えれば考えるほど吐き気がし、目眩で視界が歪み、鮮明になるのは頭の中にこびり付いている玲実の笑顔だった。
そのまま帰ってしまいたいのも山々だが今日は朝一番からお客様がお見えになる。お茶と砂糖がなくなったから早く買いに行かなくちゃいけない。体調不良の条件は揃っているけれど、働いていないとすぐ頭の中に玲実が出てきてしまう。
9時からあいてるスーパーが確かあったはず。急いで行こう。
「翠!翠!いるのか翠!」
鳴り続けるインターホン。部屋に名前を呼びかけている人物の血相は普通ではなかった。右手でインターホンを押し利き手である左手でドアを軽く、でも聞こえるような力量で叩く。一刻も早く彼女に会いたいが、ここがマンションであるがゆえ騒ぎたてることはできないということだろう。
「翠!」
呼びかけ続けて10分以上は経っていた。
そのとき中から今にも卒倒しそうな無表情の女性が出てきて途端彼女を抱きしめた。
「翠…翠…」
彼女の名を呼び続ける声に反応は薄かった。翠の表情に変化はないが紫色の唇が微かに動く。
「れ…ん…せんぱ…い」
出た言葉は無意識かそれとも反射的なものだったか。一方的に抱きしめる蓮の顔も青白いまま変わっていなかった。
「翠…とりあえず中に…」
風はない。空は雲に覆われ日中とは思えない。雨が降りそうだが、空気は乾いている。二人は黙ったまま矢崎家へと入って行った。
綺麗な玄関、そろえられている靴、少しも曲がっていない飾られた写真、不潔なのもが一切ない台所、角度までそろえられたクッション。本棚の空いたスペースには2つの色違いのテディーベアが仲良く手を繋いでいるように並べられていて、赤い方には『茜』緑の方には『翠』と刺繍で書かれている。淡いパステルカラーを基調とした部屋の中で、このテディーベアたちだけが異色のようにも見える。部屋の中は綺麗に整理されていて散らかっているものも、壊れているものも、暴れた後もない。ただただ粛然としていた。
ある程度進むと翠はぺたんとフローリングの部分に倒れるように座った。蓮は初めて入る彼女部屋の静かさにも血相を変えず立っていた。
「翠…は、ずっとこの部屋にいたのか」
ほんの少しだけうなづく翠。
「怖く…なかったか」
質問に対する返答は無かった。
「れ…みちゃんは…」
本当に微かな声。
「玲実ちゃんは本当じ…じさ…」
でもこの異常な空間には十分の声量。荒れる息遣いもこの空間にとっては愛しいものだった。
「いいから翠…落ち着いて…ほら、落ち着いて」
膝を床につく音。埋もれていく息遣い。まるでなに一つ音は聞き漏らすまいとでも耳が言っているかのようだ。
しばらくして荒い息遣いが治まった。
「すみません、先輩…。私…先輩の顔見たら…涙が…」
「みた瞬間泣かれるなんて、僕そんなに怖い顔してたかな」
蓮は赤くなった目を見て言う。それに翠は大きく顔を横に振る。
「違います」
冗談だったんだけどな、ははっと眉を下げて笑った。
「ほっとしたんです。今まで一人で…いたから」
「お姉さんは?仕事?」
はいと、返事をしながら翠は立ち上がって台所へ向かう。そしてマグカップを二つ出し片方にはインスタントコーヒーを、もう片方にはココアを入れて電気ポットからお湯を注ぐ。
手馴れた動作でいつもの自分に戻ろうとしているかの様。
「コーヒーでよかったですよね」
自分を立て直そうとしている翠がとても見ていられないとでも言うかの様に蓮は黙ってソファーに座りマグカップを口に運んだ。
「うん。さすがウエイトレスさんがいれたコーヒーはおいしいね」
「インスタントですけど」
「翠が淹れたからだよ」
終始どちらの表情が変わることは無かった。ただ淡々と昨日までと変わらない会話をしようとしているその空気はまるでどこか危険地帯にいるような緊張感。
だが二人の表情から違うこと考えているかの様にも見える。
「先輩は…玲実の話は誰に聞いたんですか」
「大学の…あの、良って知ってるか」
「はい。先輩と小学校からずっと一緒だったって…」
「そう。そいつから聞いた。この辺の団地の人はみんな知ってるんだろ。僕が住んでいるところまでは話が入ってこなくてさ。
一部の人は知っていたみたいだけど。それで、いつもどおり大学行ったらなんか雰囲気がおかしくて、明らかに僕だけ知らない感じだったからさ、ちょうど来た良に聞いたんだ。そしたら『何で蓮がここにいるんだ、早く翠ちゃんのところに行けよ』ってすごい剣幕で怒られてね。それで大急ぎで事情を聞いて飛んで来たんだよ。翠は…」
「隣の住民の方に聞きました。朝の6時頃。私も茜ちゃんも起きたばっかりで…いきなりインターホンがなったので何事かと
思ったら…」
ひとつひとつ丁寧に、いつもよりゆっくりと言葉が出てくる。部屋に電車の音が聞こえた。
「玲実は自殺だって警察は言っているらしいな」
答えは無い。
「なんかおかしい気がするんだ、様子を聞くだけでもおかしいよ。だって」
「いいよ」
「翠…?」
「そんなこと自殺だろうと、他殺だろうと玲実ちゃんが死んじゃったことには変わりないんですよ」
顔をあげた冷静になりつつあった赤い目の顔が『死んじゃった』という言葉を使ったことに蓮は寒気がした。
そんなことを悟られまいとそっと抱きしめた顔は来たときとは違った緊張感を持った顔になっていた。