濃霧の向こう側に手を伸ばして
「仕事に行って、そのまま帰って来ないんじゃないかと思うと凄く不安になるの。だから、行って欲しくなかったの」
少し俯いた彼女はそのうち、肩を小刻みに震わせ始め、小さく座った足元に、ぽた、と何かが落ちて丸いシミを作った。
それを皮切りに、堰を切ったように涙が流れだした。下唇をぎゅっと噛み締めて声を殺している。それを見て動揺しないわけがなく、俺はベッドに腰掛けると彼女の骨張った背中に手を置いた。
「ごめ、んね、たけ、ひと、ご、めんね」
言葉が言葉として機能しないような言い方で必死で謝罪をしている。悪い事をした自覚はきっとあるのだろう。だけど不安定な精神が、彼女を不安に押しやり、あのような事をさせたんだろう。食べるように飲みこんでいた、カラフルな錠剤を思い出す。
「俺は出掛けてもちゃんとここに戻ってくるから。泣くなよ」
背中をさすっていると、座っている俺の脇腹に突っ込むみたいに顔を寄せ「ごめんね、ごめんね」と再び謝り始めた。
「もう、絶対にやるなよ。その代わり、職場から飯の時とか、帰る時とか、時々メールするからアドレス教えろ。それでいいか?」
鼻をすすりながら頷き、一度顔を上げて俺の顔を見た。やにわに俺の肩に両腕をかけて抱きついて来た。
「なんだよ! 何してんだよ!」
急な事で俺はバランスを崩し、そのまま彼女に押し倒されるような形になった。壁に強かに後頭部をぶつけたが、キリはそこから離れようとせず、俺の胸の辺りに耳を寄せている。
「このまま、ちょっとだけ」
「キリ?」
「このまま」
彼女の身体は空っぽの発泡スチロールが覆い被さってきたみたいに重さが感じられなくて、だけど人としての体温がきちんと伝わる。暖かい。暫く彼女の背中に置いた手の平を上下にさすりながら、彼女の満足がいくまで、そうしていた。こうして女と身体を寄せ合うのはいつぶりだろうかと、ふと思う。どうして俺は、この女の身体をさすってやり、慰めてやっているのだろう。
「キリ、どうして俺なの。俺じゃなきゃだめだったの?」
「武人じゃないと、ダメなんだと思う」
俺の胸と耳に同時に、声の振動が伝わる。さする手をそのままに「何でだ?」と訊いてみるも「分からない」と返ってくる。
俺は彼女を持ち上げるようにして身体を起こすと、彼女は俺の膝をまたぐようにして座った。
「そろそろ教えてくれ。何で俺なんだ。キリは一体何者なんだ」
キリは俺の胸元をじーっと見つめ、それから金魚が気泡を飲み込むみたいにして口を開く。
「探してたんだよ、武人を。沢山の駅に行って、弾き語りしてる人を見て、探した。やっと見つけたからもう、手放したくないから」
「なぁ、それ何かの人違いとかじゃ」
どん、と衝撃があって、キリは俺に再び抱きついた。
「人違いじゃない。武人で合ってるから。これでいいんだから」
俺に抱きついた細い身体を支えるように、俺は彼女の腰に腕を回した。腕が一回りしてしまいそうに思えるぐらい、痩せている。
「キリがいいなら、別にいいけどな。けどこれだけは約束してくれ。俺はちゃんと帰ってくるから、俺を困らせないでくれ。それだけは約束」
キリは少しだけ身体を離すと、右手の小指を立てた。それは少し弧を描いていて、誰かの小指が巻き付く事を想定した形を作っている。俺は左手の小指を立て、震える青白いそれに絡めた。
「約束だぞ」
「武人と約束できるなんて、嬉しいな」
どこまで行っても真実に辿り着かないような彼女の文言に「そうですか」と苦笑し、それでもこれからは同じような事はないだろうと確信できた。小指に掛けた約束を破るようには、どうしても思えないのだ。なぜだろう、彼女はもしかして、小指に掛けた約束を叶えられなかった思い出があるのかも知れない。だが、そこまでは言及しないでおいた。不安定な彼女の感情を、あまりかき乱したくなかった。絡めた小指は、なかなか外されなくて、また俺は苦笑した。
作品名:濃霧の向こう側に手を伸ばして 作家名:はち