濃霧の向こう側に手を伸ばして
あのビラを彼女が手にしていなかったら、俺のライブを聴きに来る事は無かっただろう。そうしたら彼女は、誰にも何も告げずに霧の向こう側へ、夫を追って行く事になっていただろう。
俺は玄関の鍵を開け、先にドアをくぐる。靴を脱ぐと、キリはパンプスを引きずるようにしてゆっくりと玄関の中に入った。
両手を大きく広げ、できうる限りの笑顔で、言った。
「キリ、お帰り」
「ただいま、武人」
相変わらず彼女は、発泡スチロールみたいに重さがなくて、それでも俺の胸に飛び込んできた軽いキリには、三十六度ぐらいの体温が、きちんと宿っていた。
作品名:濃霧の向こう側に手を伸ばして 作家名:はち