濃霧の向こう側に手を伸ばして
クスクスと笑いが起こり、どこかから「なんでもいいよ!」と声が上がり、俺の頬が緩む。ストラップを掛け直し、一つ咳払いをした。
「ではいきます、濃霧の向こう」
歓声と呼ぶには少し足りないぐらいの声と拍手とともに、イントロのコードを鳴らした。弾き語り時代を知らないソニックスのファンには、少し新鮮みがあるかもしれない「濃霧の向こう」を、俺は歌った。
手を伸ばしてみるといい
その向こうには見えない明日が
舌を向けて走り出している
手を伸ばしてみるといい
霧は水となって君をまとい
そこにあったはずの淡い白は 姿を消してしまう
永遠に 永遠に
転調を迎える直前、照明が切り替わった。ぱっと明るくなったフロアの一部にふと目をやると、ジャケットのファーに小さな顔を覆われた女性が、壁にもたれるように立っていた。
それは見まごう事は無い、キリの姿だった。
彼女は生きていた。俺が歌う、夫の曲を、腕組みしながら聴いている。
夫に似た顔の、夫に似た声の男の、夫の曲を、聴いている。
キリは何を思う? それでも夫の元へと向かうかい?
俺が手を伸ばすとキリは、水になって消えてしまうのか?
俺は最後のサビを歌い上げると、ギターをスタンドに置いた。マイクを通さず「今関さん、ありがとうございました」と叫んだ。視線の先には、キリがいた。
拍手の音に頭を深々と下げ、顔を上げた瞬間にはキリの姿は無かった。
「下島君、あとで片付けるからごめん」
俺は控え室にいた下島君に言葉を突きつけて、人で溢れるフロアを駆け足で抜けた。誰かが俺の肩に手をやったけれど、構っていられなかった。
廊下に出ると、カーキ色をしたジャケットの裾が角を曲がった所だった。
「キリ!」
俺は腹の底から叫び後を追ったが、角を曲がった先、俺の足音とは別の足音が走り出したのが分かった。意識的に走る速度を上げる。
しかし無情にも、目の前のエレベーターは俺の数メートル前で口を閉じた。そこにキリの姿は見えなかったが、恐らくこのエレベーターに乗っただろう。踵を返し、ライブハウス側に戻り、隣にある非常階段を駆け下りる。十階分ある。相当な長さだ。だが仕方が無い。ここで追いつけなければ、彼女はもう戻って来ないだろうという確信に近いものがあった。
遠目にも分かった。曲を聴くキリの口元が、歪んで今にも泣き出しそうだった。
今、彼女の手を取らなければ、永遠に戻って来ないかも知れない。俺は階段の段をいくつも抜かして、飛ぶように駆け下りた。
盛大に息を切らせて一階に到着し、俺はエレベーターホールに急いだ。目の前に表示された数字は「二」だった。間に合った。途中の階で何度か乗り降りがあったのだろう。上下する肩は意識してもなかなか元に戻らない。
エレベーターの扉が左右に開き、中から人が何人か出てきた。その奥に、今にも消えてしまいそうな痩せ細ったキリの姿があった。俺と目が合うと、口元だけで薄ら笑みを浮かべた。
「キリ」
俺は手を伸ばし、エレベーターから彼女を引っ張り出した。力なくしなだれるように身体を揺らす彼女の二の腕を掴み、いくらか乱暴に振った。
「どこに行ってたんだよ、死んだのかと思っただろ。ふざけんなよ、勝手に入り込んで勝手にいなくなって。連絡ぐらいよこせよ」
俺が揺らした分だけ、キリは頭をぐらんぐらんと揺らす。口を開こうとはしない。
「心配したんだよ、俺も、今関さんのお母さんも、それから香山さんだって心配して探してた」
視線を逸らすように、キリは足元に目を落とす。いつもの、バカみたいに色が浮いている赤いパンプスを履いている。
「どこにいたんだよ、それぐらい答えろよ」
「ホテル」
安堵の溜め息を吐いた。雨風凌げる所で生きていた、それで十分だ。
「うた」
キリは下を向いた間まま口を開く。
「健司が戻ってきたのかと思った。嫌かも知れないけど、凄く、似てた。弾き語りしてた頃の、健司にそっくりだった」
言葉を紡ぐごとに震えを増す彼女の声を聴いていて、俺は正気でいられなくなり、乱暴なぐらいに彼女を引き寄せて抱きしめた。
あの曲は、キリの事を思って作ったのかも知れない。本当は、自分の恋人を思う幸せな曲なのかも知れない。キリはその事を知っている。だからこそ今日、このライブに来た。
「これだけは教えろ。俺が今関さんに似てるから、今関さんの代わりになると思ったから近づいたのか?」
吐息さえも震え、泣いている事は明らかなのに、俺は返答を強いた。それを訊かなければ、これからの俺の行動が決められないのだ。自分本位だという事は認める。だがそれを知らなければ、キリの事を守る事も手放す事も、できはしないのだ。キリは震えながら、震える声で息をし、俺のシャツをぎゅっと掴む。
「初めはそうだったよ。似てるから、それで埋められるんじゃないかと思ったんだ。でも、健司と武人は全然違う人で、でも武人の事が好きになっちゃって、でもそれってダメな事でしょ? 子供を、夫になるはずだった人の親に預けて、別の男を好きになって。それってダメな事だから」
シャツを握る手も震えている。そのうち手を離し「約束したから」と言った。
「絶対に結婚するって、約束したんだから」
離した右手は拳を作り、そこから離れた小指は、まるでそこに何かが巻き付いているかのように、弧を描いていた。キリのそこに巻き付いたものが誰の小指だったのかは容易に想像できる。
俺はそこに自分の小指を絡ませた。何のためなのか、自分でもよく分からなかったが、彼女の小指を空のままにしておけなかった。
もう十分だ。俺はこの後どうしたらいいか、おおよそ頭に思い浮かべる。
「ライブハウスに戻るぞ」
そう言って彼女の二の腕を掴み、エレベーターに乗った。
作品名:濃霧の向こう側に手を伸ばして 作家名:はち