濃霧の向こう側に手を伸ばして
「ほんと、似てる。似てるね、健司に。桐子ちゃんがあなたの所に行ったっていうのは、何か分かる気がする」
「桐子さんは、何で僕の所に来たんですか? ずっと疑問だったんですけど、桐子さんからは話してもらえなくて」
傍にあるキリの鞄に目をやった彼女は、ふっと頬を緩め、目頭を少し押さえた。
「香山君に聞いたんだけどね。同じ駅で弾き語りをしてた後輩で、健司とそっくりな子がいるんだって。桐子ちゃんも多分、その事を知ってると思うからって。だからこそこうやって桜井さんの所に私が辿り着いた訳なんだけど」
俺の疑問に対する答えにはなかなか辿り着かず、少し苛立つ。しかしこの女性は息子を亡くしていて、目の前には息子にそっくりの男が一人。いなくなった義理の娘を取り逃がし、頭の中は混沌としているのだろう。じっくり話を聞く事にした。俺は頷いて先を促す。
「推測でしか言えないの。勝手な推測で、本当の事は桐子ちゃんに聞かなきゃ分からない。でも多分、健司を亡くしてぼろぼろになって、健司の影をあなたに求めに行ったんだと思う。外身だけでもいいから、健司を。凄く、なんと言うか、抽象的な表現になっちゃうけど、分かってもらえるかな」
そう言って自嘲気味に笑う。俺はまだ一度も口をつけていない緑茶に初めて口をつけ「そうですか」と言った。それ以外に言葉が見当たらなかった。本人に聞くしかないのだ。俺を求めてきたのはなぜなのか。今関さんとそっくりな俺と暮らす事で埋まる穴だったのか。
俺は傍らに置いたギターケースからビラを一枚取り出すと、隅の方に携帯番号を記入した。
「これ、僕の番号です。もし桐子さんが見つかったら連絡ください。僕ももし見つけたら連絡しますんで、連絡先聞いてもいいですか?」
女性にもう一枚のビラとペンを渡し、連絡先を記入してもらう。今関、と名前が書かれた。
「桐子ちゃんがどこに行ったかとか、心当たりはある?」
俺は頭を巡らせ「うーん、特には思い当たらないですね」と期待はずれの答えをする。
「でも、お金は沢山持っていたようですから、ホテルに泊まるとか、そういう事は可能かもしれませんね」
そう言うと、少し安心したような笑みで「お金持ってるなら心配ないかな」と言って立ち上がり、ベッドで寝ていた子供を再び抱えた。何か声を出したようだったが、女性の胸で再び寝息をたて始める。
「あの、駅まで送って行きましょうか?」
「いいの、桐子ちゃんがここに戻ってくるかも知れないから。桜井さんはここにいて、ね」
どことなく今関さんの面影があるその女性は、どことなくキリの面影がある孫を抱いて、駅に向かって歩いて行った。
部屋に戻ると、棚に置いた赤と白の紙袋が目に飛び込んできた。中を開くと、チョコが入っているのだろう小さな箱と、小さな二つ折りの手紙が入っていた。
『私だけの武人へ』
キリがいない布団の中は、いつにも増してひんやり感じ、まるで四方八方を巨大水槽で塞がれているような孤独感があった。神様が今、欲しいものを一つくれるなら、俺はまごう事なく「キリ」と答えるだろう。それぐらい、物悲しかった。彼女を欲していた。それは性的な意味ではなく、傍にいて欲しかった。俺の手の届く範囲にいて欲しいと思った。
キリのお腹の傷口から生まれたあの子供は、今関さんとキリの子供。俺は今関健司ではなく桜井武人だ。それなのにキリはなぜ、俺に身体を許したんだ。子供を残してまでなぜ、俺の元にとどまっていたんだ。
全ての答えは、キリが握っている。キリだけが、本当の事を知っている。知りたい。でも、知らなくてもいいのかもしれない。欲張るのはやめだ。
俺を求めるキリがそこにいれば、俺が求めるキリがそこにいれば、それでいいではないか。
月のクレーターに落ちる夢を見た。そのクレーターは人の背丈よりずっと深くて、俺はそこから這い出る事は不可能だった。何度か壁面に爪を立ててみるが、砂壁のようにぽろぽろとはがれ落ちる壁面に、なす術が無かった。
その時、頭上を何かが横切った。
とても細くて、棒のようだけれど、人の腕である事は分かった。その腕が、自分の守るべき物である事も。
「キリ」
そう言った瞬間、俺は目を覚ました。手を伸ばす前に、目が覚めてしまった。
「キリ」
部屋の中に響く程に声を出した。しかし返事があるはずもなく、喉の奥が締め付けられるようになって俺は項垂れた。
作品名:濃霧の向こう側に手を伸ばして 作家名:はち