ピアニストの恋心
そして私はと言えば、そんな彼の足元にも及ばないつまらない高校生だ。
「私、ピアノ弾きってもっとお堅いイメージだったなぁ。ほら、日曜日のクラシックの番組でタキシード着てグランドピアノ弾いてる人が居るじゃない?ああいうイメージだったかも」
荘平さんが演奏する場所は、レコーディングスタジオの外なら、ライブハウスやカフェなどの気取らない場所が多い。時にはお堅い市民ホールでの演奏会にも呼ばれる事もあるらしいが、専らジャズやロックバンドでの演奏が彼の生業だ。
「まぁ色んな人が居るからね。ああいう人たちが確かに最大公約数には見えるけど、シンセサイザーだって鍵盤楽器の一つだよ?」
「荘平さんもシンセサイザー弾いたりするの?」
「俺はそっちはあんまり詳しくないから……先輩にはそういうの専門の人も何人か居るけどね。桐緒さんは俺にもそういうの、弾いてほしいわけ?」
冗談とも本気とも取れるような不思議な色の瞳をして、彼は尋ねる。その綺麗なアーモンド形の瞳はほんの少し色素が薄くて、晩秋の落ち葉の色みたいな焦げ茶色をしている。
「別にそんな事言ってないし……私は荘平さんはそのままでいいと思うよ」
口を尖らせてそう答える私を前に、にっこりと得意げにほほ笑みながら荘平さんは答える。
「桐緒さんはそのままの俺が好き、と」
「そんな事言ってない、言ってないから」
「照れなくていいじゃん」
「プレーヤーとしての荘平さんが好きって事です」
「俺は女の子としての桐緒さんが好きです」
「……ありがとう、ございます」
得意げににやりと笑いながら、荘平さんは細くてしなやかなその指をそっと私の元へと伸ばす。ゆっくりと忍び寄るそのあたたかな予感に酔いしれるようにしながら、私は静かに瞼を閉じる。
子どもみたいに、微かに触れるだけの淡いくちづけ。
荘平さんの唇はいつもあたたかで、コーヒーと少し、ミントのタブレットの味がする。
「桐緒さん」
抱きとめたその肩を、指先でトントン、と軽く叩くようにしながら荘平さんは答える。
「瞳、もう開けていいよ?」
ゆっくりと瞼を開ければ、子どもみたいにくしゃくしゃに笑う彼の顔がそこにある。
遠くから主人を見つけて駆け寄る時の犬みたいな、その屈託のないくしゃくしゃな笑顔が私はたまらなく好きで、その表情が自分だけに向けられてる事が途端に恥ずかしくなる。
8つも年上のはずなのに、この人は時々ひどく子どもっぽい。
「桐緒さんてさ、いつも瞳を開けるタイミングが遅いよね」
「だって恥ずかしいんだもん」
「普通はキスしたら瞳、覚ますはずなのにね。それじゃ眠り姫みたいだね」
「荘平さんって時々ロマンチストだよね」
「相手が桐緒さんだからだよ」
そうやって静かに瞳を細め、荘平さんは笑う。その笑顔がやっぱりどうしようもなく好きで、そしてなぜか少し悔しい。
揺れる荘平さんの肩越しでは、時計の針がぐるりと回る。
「あ、」
私の声に引き寄せられるように、荘平さんはゆっくり振り返って時計を確認する。
「もうこんな時間か、送るね」
「……うん」
時が止まったらいいのに、なんてロマンチックな事を荘平さんと居るようになって私は少しだけ考えるようになった。
誰も知らない、私の変化。当の本人な荘平さんにだって、こんな事は知られたくない。
さりげなく私のカバンを持ちながら、荘平さんは尋ねる。
「そういえば桐緒さんさ、いつも来る時私服だよね。今日だって学校あったんでしょ?」
「いいの、私がそうしたいんだから」
「荷物、重いでしょ?コインロッカー代だってバカになんないし。大体目立たない?わざわざ私服に着替えてうちまで来るって」
「……」
答えたくなくて、私は無様に口を噤む。
まるで子どもみたいなその態度を前に、追及する事を止めて静かに靴ひもを結ぶその姿に、ちくり胸が痛む。
子どもなのに子ども扱いを嫌がる私。大人だから、子どもの私を許してくれるこの人。
悪いのもふさわしくないのも、全部私だから。
「あ、もしかしてさ」
きゅっときつく靴ひもを結び、パンパンと服についたホコリを払うようにしながら、荘平さんは答える。
「明らかにカタギの仕事じゃなさそうな怪しい男が部屋に女子高生連れ込んでるって噂にならないようにって気遣ってくれてるわけ?」
「……そんなわけ」
本当は気にしていないわけじゃない。でも、それを言ってしまうのはまるで、荘平さんを貶めているみたいですごく嫌だった。
それでも荘平さんはまるで全部わかってるみたいな顔をして笑うから、私の気持ちはぎゅっと掴まれたみたいにくしゃくしゃになる。
「あのね、荘平さん」
少し大きめの上着のポケットからちらりと覗いた手をぎゅっと握り、スニーカーを履いた自分の足元を見ながら私は答える。
「そういうのもその……無いわけじゃ、ないけど。ほら、制服だとやっぱり、高校生に見えちゃうじゃない。荘平さんは大人だし……並ぶとやっぱりそういうの、目立つのかなって思って。変な意味とかそういうのじゃないの。ただね、私がこう……気にするって、いうか」
「桐緒さん……」
ぽんぽん、と頭を撫でながら、荘平さんは答える。
「桐緒さんのそういう所、俺は好きだな」
「せめてもうちょっと背が高くてもっと大人っぽかったらよかったのにね。ごめんね、荘平さん」
「そんなの別にいいよ、桐緒さんは今からもっと背が伸びて大人っぽくなって、俺がびっくりするくらいの美人になるんでしょ?」
この人のこういう事を真顔で言う所が好きだという事を、彼は果たして知っているのだろうか。
いや、知らないままの方がいいのだけれど。
「外、寒いよ」
「うん、知ってる」
遠慮がちに差し出したその手を、躊躇う事なく彼はそっと握り返す。大きくてしなやかなその掌にふわりと包まれるその感触も、そのぬくもりを感じながら見上げる顏も、全てが愛おしさに溢れているのを私は知っている。
私の恋人は私よりも8つ年上で、鍵盤弾きを生業としている。
まだそれほど有名ではないけれど、毎日楽器のある場所へと音を届ける事に忙しくしているらしい。
これは、そんな彼とまだ何にもなれない私のありふれたひとつの恋のお話。