蝶狩り
「何それ」
「そのまんま、蝶を狩るんだよ」
「昆虫学者か何か?」
こちらの問いに、今度はふるふると首を横に振った。先程から子供みたいな仕草をする男だ、と思った。
「いいや。俺は学者になれる程の学はねぇよ」
「じゃあ何」
男は太くてゴツゴツとした指で挟んだ煙草を吸うと、細くてやたらと長い煙を吐き出した。白い線は天井に当たることなく、それより低い位置で消えていった。それを何とはなしに眺めていると、男はやっと口を開いた。
「『胡蝶の夢』って知ってるか?」
以前学校で習った気がする言葉だ。
「今の自分は夢の中にいるのか現実なのかわからなくなるってやつ?」
「そう。蝶の古名は『夢見鳥』と言ってな、つまりヒトの『夢』を狩るんだよ」
人の夢を。
「狩って、どうするの?」
「売るんだよ、欲しがってる奴に。結構良い値で売れるんだぜ」
人の夢を狩って売る。買う。
「……悪趣味」
売る奴も、買う奴もだ。
くくく、と男は喉の奥を鳴らすように笑った。ついでのように煙草を一口。そして煙を吐き出しながら言った。散らばった煙が上る。
「まぁ、そう言うなよ。人には人の事情や好みってのがあるんだ。それにな、同業者の中にはもっと凄いモノを狩る奴だっているんだ」
「凄いモノ?」
「よく言うだろ、同じ穴の狢とか獅子の心とか。それを狩るんだよ」
「どういうこと?」
だんだん意味がわからなくなってきた。そもそも人間と動物に何の関係があるのだろう。人の狢って何だ?
「だから早い話、ヒトの中にいる獣をちょっと拝借して、他の奴に売ってやるんだよ」
「返さないくせに」
私がそう返すと、男は口の端を持ち上げた。にやり、と悪そうな笑みだ。
「いいだろ別に、ヒトはその身の中に何千何万って数の獣達を飼ってんだから。そこから一つくらい取ったって、どうってことはないさ」
何千何万の獣達。
幼い頃に動物園で見た光景を思い出した。
細かい小枝や餌の残骸が汚らしく張り付いた毛皮、それに纏わり付く蝿、独特の臭い。
「そんなモノが、人間の中にいるの?」
「そんなモノ? 獣なんて大したモノじゃないよ。同業者には鬼を狩ってる奴もいるんだから」
人の中に、鬼。
「……人の中に、化け物がいるの?」
「化け物? 化け物ねぇ」
男は心底おかしそうに笑った。煙がそれに合わせてゆらゆらと揺れている。煙草はもう随分短くなっていた。
「俺からしたら、ヒトそれ自体の方がよっぽど恐ろしい生き物だよ。そんなモノを隠し持ってんだからな」
何でもない、弱々しい顔をしながらな、と男は楽しそうに言った。
この男は本気で自分の仕事を楽しんでいる、と思った。でなければ、こんな表情になる訳がない。
でもな、と付け加える。
「もしもヒトから何一つ穢れのない、本当に無垢な生き物が生まれたら、それこそこの世で一番恐ろしい、怪物の誕生さ」
うっとりと、まるでそれが待ち遠しいと言わんばかりの調子で言うと、煙草を灰皿に押し付けた。無惨に潰れたそれに、何故かどきりとした。
「そろそろ仕事に戻らないと。じゃあな、またそのうち何処かで会うだろう。それまでにお前のコレ、もう一度育てとけよ」
そう言った男は、左手の指先に赤い蝶を掴んだまま、何処かへ消えた。