赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (3)
半衿(はんえり)は、
和服用の下着である襦袢に縫い付ける替え衿のことです。
長さが実際の襟の半分程度であることから、名前がつけられました。
本来の目的は襦袢を、埃や皮脂、整髪料などから保護をするためのものです。
汚れたらはずして洗濯し、何度も使用をするのですが、
顔に近い部位につけるために着こなしのポイントとしても、
たいへん重要視されています。
刺繍などによる豪華な装飾を施した、高価な半襟なども存在します。
戦前においては、色衿や刺繍衿などが主流です。
戦争前の1940年に公布された『奢侈(しゃし)品等製造販売制限規則』を
きっかけに、人気が白衿に移行をします。
戦後、色衿が復活の様子をみせますが、白一辺倒の傾向が
いまだに続いています。
本来は、和服の色に合わせ、赤、黄、青、緑、桃色、水色、紫など、
殆んど無数の色が用意されています。
ただし原則として赤い襟のみ、少女向けとされています。
既婚女性は、赤色やそれに近い色は避けたほうが
無難と言われています。
花柳界には、『襟替え』という言葉があります。
少女が掛ける赤い半襟から、一人前の女性になったことをしめす白い半襟へ
襟を掛け替える習慣のことを表しています。
半玉、舞妓と呼ばれていた雛妓が、一人前の芸妓になったことを示します。
半玉は、このときから一人前の玉代を受け取ることが出来ます。
また髪型も、いっそう大人を示す日本髪に変えていきます。
こうした風習から、襟を替える前の雛妓たちのことを、花柳界では
『赤襟』と呼んでいるのです。
老舗旅館の裏手からの帰り道、
すっかり食欲が満たされた三毛猫のたまは、清子の腕の中で、
気持ちよさそうに眠りについています。
そんなたまの様子に目を細めながら、若女将がしみじみとつぶやきます。
「この湯西川という温泉の街は、実は、
とても優しくて、人情豊かな街なんだよ。清子。
初めてやってきたお前には、未だその良さがわからないだろうが、
いつかそれを実感する日も、きっとやってくるだろう。
一年前。ここへやってきたとき、何も知らない私を花街の女性たちは、
自分の娘のようにして、陰日向なく支えてくれた。
着物が着られなかった私に、ひとつひとつ手ほどきをしてくれたのは、
あんたのお母さんで辰巳芸者の血を引く、春奴姉さんだ」
「辰巳芸者って、どんな芸者さんですか。若女将さん」
「15歳では、辰巳芸者のことは知らないか。
辰巳芸者(たつみげいしゃ)は、江戸時代を中心に、
江戸の深川(後の東京都江東区)界隈で、活躍をしてきた芸者衆のことさ。
深川が江戸の辰巳(東南)の方角にあったことから
「辰巳芸者」と呼ばれてきた。
羽織の姿が特徴的なことから「羽織芸者」とも呼ばれています。
『女の意気』と『張り』を表看板にしています。
舞妓や芸妓が京の「華」ならば、深川の辰巳芸者は、江戸の街の
「粋」の象徴として、常にたたえられてきました」
「ということは、お母さんは深川の出身になるのですか?」
「お母さんの出身は、越後の海沿いと聞いています。
12の時、詳しい事情は知りませんが、すでに
深川に身を置いていたそうです」
「身を置くとは、いったいどう言う意味ですか?」
「苦海に身を置くという、例えのことです。
苦しみが、深く果てしなく続いていく人間界のことを、
海にたとえて表現をした言葉です。
親の借金や家の都合などのために、年頃に成長をした娘たちが、
泣く泣く遊女などに売られていくという話が、昔はよくありました。
そういう現実や、女たちの歴史が、ついこの間までの日本には、
掃いて捨てるほど有ったんだよ」
「へぇぇ。・・・・
そうなんですか。そんなの初めて聞きました」
「お前。生まれたのは群馬県だろう。
群馬県といえば、女性解放運動を率先した『廃娼運動』の発祥の地だ。
そうか。お前はまだ15歳だもんね。
女の悲惨な、もうひとつの歴史を知らなくても、無理はないかぁ・・・」
(4)へつづく
作品名:赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (3) 作家名:落合順平