蛹
少女は彼にであってはじめて知った。体温が上がること、胸が焦がれること、腰の奥がジンと……。少女にとって、それはまさしくときめきだった。
お姫さまは、恋をした。
けれどひとつ問題があった。お姫様が恋をしたのは、隣の国の王子さまではなかった。
お姫さまは、隣の部屋の王さまに恋をした。
少女はベッドの上で溜息をついた。夕方のぼやけた日の光に透かすように指先を眺めた。当然透けなかった。王さまをひとり占めするあのひとの爪は、きっと尖っているのだ。わたしなんかのまるっこい爪で、王さまを捕えられるわけがないのだ。
少女は顔を動かした。視線で己の制服を舐めた。プリーツスカートから覗く膝頭の幼さに唇を結んだ。ふと、父親にかわいいといわれて無邪気によろこんだ過去の風景を思い出した。父親が言っていたことも思い出した。いつかこんなアパートを出て、一軒家を買って三人で住もう。
身体を起こし、ベッドに腰かけた。また溜息を、ひとつ。
溜息が床まで落下した。はなびらが散り風に弄ばれるように部屋中に浮上した。それは少女の身体に纏わりついた。その不快さは、吐瀉物を身体に絡めるようだった。
「野々宮……さん」
口に出してみて、自分が彼の妻の旧姓を知りたがっていることに気付いた。どうしようもなかった。いきなり、昔はなんて名字だったんですかなど聞けるわけがない。
「野々宮さ……」
彼の妻も彼の子供も、みんなパパと呼んでいた。妻は子供がいない時はあなたと呼んでいることもあった。
「あなた」
模倣は嫉妬しか生まなかった。
日がまた少し傾いた。お姫さまは半日を共に過ごした靴下を脱いだ。
王さまとお姫さまが会うのはいつも夕方だった。王さまはいつも夜遅くに帰るらしいが、土曜日だけは夕方に帰ってきた。お姫様は土曜日は塾の日だった。バスから降りると走って部屋のある三階まで行った。そうすると、大抵スーツ姿の王さまに会えた。
その日もいつも通りだった。バス停に降り立った少女は駆け足で家に向かった。足取りは段々速くなっていった。ひとこと、言葉を交わせるのだ。ひとこと。
「こんばんは」
彼はにこやかに挨拶をした。彼の左手に提げられた鞄が止まる。少女が両手で持っていた鞄は揺れた。
「こんばんは」
彼はインターホンを押した。少女はポケットから鍵を取り出した。ドアが少し開いた。彼はそれを更に開いた。隙間からちらりと、子供のてのひらが見えた。少し手間取るふりをして、彼が部屋に入るのを見送った。
お姫さまは唇を舐めた。
その日ははじめて朝に会った。王さまはごみ袋を抱えていた。お姫さまはセーラー服だった。
「おはよう」
その日も彼はにこやかに挨拶をした。少女は喜んで応じた。
「おはようございます。……今日は、過ごしやすい天気ですね」
「ええ。帰ったら、息子を連れてどこかに行こうかな」
「……仲が良くて、いいですね」
「すみません。ここ、壁が薄いから。うるさいでしょう」
「いいえ、そんなこと」
「では。いってらっしゃい」
「はい、いってらっしゃい」
お姫さまは歩きながら、何度もいってらっしゃいを呟いた。足取りは軽くなった。束の間、王の隣にいる女王の姿を夢想した。けれどなかなか、女王とお姫さまは重ならなかった。代わりに王さまとお姫さまの結婚式を想像した。
お姫さまは、唇を綻ばせ駆け出した。