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愛は惜しみなく う

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愛は惜しみなく う

「はい」教室に涼やかな声が響いた。彼女は一定の速度で俺の後ろから机の隙間を歩いて俺の机の横をすり抜ける。教壇の上に立ち、まだ長いチョークをつまみあげ、黒板にこう書いた。
『問19 (1)』
 カツカツという硬質な音がする。彼女はさらさらと問19の解答を書くその筆運びには淀みがない。彼女の几帳面な字が一定の間隔で歪みもせずに並んでいく。俺は彼女の白いブラウスの背を見つめた。彼女は相変わらずかっちりした書体でアルファベットを書いている。彼女は筆記体が書けない。数学ではそれがふつうだというのに。
 彼女はノートに字を丁寧に書きすぎるので、しばしばノートがとり終わらない。その度彼女は俺にノートを借りに来る。そして毎度ノートを開いて、何これ、読めないんだけど、と俺の筆記体を指して笑う。
「筆記体書けるからって調子乗るな、かっこつけ」
 かっこつけ男! と彼女は笑う。笑いながらノートを胸に、くるりときびすを返す。俺は頬杖をついて彼女を見ている。彼女は一定のスピードで証明を書き進めている。教室は誰の話す音も聞こえない。外は雨が降っている。
 俺が筆記体を覚えたのは中学生の頃だ。俺を教えていた家庭教師に教わった。彼女は英米文学を専攻していて、見事な筆記体を書いた。 それから俺のノートには彼女には及ばずとも見事な筆記体が並んでいる。
 雨音。静寂の中のチョークの音。彼女の黒髪が揺れている。
 彼女は駅前の数学の塾に行っている。それは受験用ではない。純粋に数学をこよなく愛す人たちが趣味の一環として通っているのである。塾おもしろいよ、と彼女は言う。
「授業の解法なんか全然エレガントじゃない」
 俺はカリグラフィーでもやっているほうが断然楽しい。

 彼女は三日前の放課後のショートが終わった後、俺のところに来た。常日頃の仏頂面が増してまるで能面のような表情をしていた。俺が貸していた数学のノートをずいとつきだす。ねえ、と彼女は機械じみた発音で言った。
「……pを筆記体で書かないで……」
 え、と俺が間抜けな声を出したら、彼女はなおも無機質に言いつのる。
「問四のpは筆記体で書かないでよ……」
 直して、今すぐ。
「なおさない」
 自分でもちょっとびっくりするほど平坦な声が出た。彼女は不機嫌そうにもういい、と言ってノートを俺に押しつけて去ってしまった。
 もういい? 何が? 数学のノートが? 問四のpが? 筆記体が? ――俺が?
 俺はそれからずっと彼女と口をきいていない。彼女が近くにいるとき妙な違和感を感じることもある(友達とケンカしたときなんか、よくあるだろう?)。俺はある種の気まずさに対してかなり強固な耐性がついている。気まずさ、awkward。俺はノートの端に書いてみた。何か物足りなかったので少しサンセリフっぽい書体にしてみた。――ふん、気まずさなんか、感じねえよ。
 彩度のない教室。雨、無音、チョークの音。
 俺は彼女が数学の塾で何かあったのだろうかと邪推してみる。彼女は常に無愛想なので敵をつくりやすい。え、――さんってなんか暗くなーい? そーそー、何処見てんのかわかんない、ぶつぶつしゃべんなっての、アハハ、てかさ、数学好きなくせにアルファベット筆記体で書かないとか本当に好きなんですかーってカンジ、マジうけるんですけどそれ、つか几帳面すぎてキモいんですけど、だよね、アハハ、――なんてね。こんなのただの妄想だ。
 俺はそういう彼女たちは別に嫌いじゃない。女の子って感じだし、盛り上がるし。自慢だが俺は人に好かれやすい。みんなでわいわい騒ぐのだって好きだ。だけど俺はそういう子たちにはカリグラフィーは見せない。
 彼女は――?
 黒板を見ると、もう証明は終わりに近づいていた。ペースは変わらない。雨音、静寂、チョークの音。
 きっかけなんてささいなことだ。ささいなことで俺たちはくっついたり離れたりする。

 だから何だっていうんだ、
作品名:愛は惜しみなく う 作家名:坂井