Happy New Year
予感はあった。
こんな日に、普段は縁のないようなホテルを予約していると聞いたら、誰だって同じように考えるに違いない。
だから、ちゃんと覚悟はしていた。……していたけれど、いざその場に遭遇してみると、想像とは全然違う。想像なんて及びもつかないほどに緊張して、動揺する。
「う、…………ん、んっ」
息苦しさで反射的に逃げようとしても、思った以上に強い力で体は拘束されていて、わずかしか動かせない。まともに息をする暇さえ与えられないまま、繰り返し、唇が重ねられる。その熱さも、舌が絡められる感触も初めてのものだった。
こういうのをディープキスっていうんだっけ、と頭の片隅で一瞬だけ、変に冷静に考えた。けれどすぐに、思考は熱に押し流されてしまう。
「………………っ、!」
あまりの苦しさに喉が耐えられなくなる。必死にもがいて腕がゆるんだ隙を逃さず、密着していた体を押しのけた。咳がしばらく止まらなかった。
「あ、悪い……」
目を丸くした彼が、さっきよりも遠慮がちな仕草で私の腕を引き寄せ、背中をさする。そのままもう一度抱きしめられて、思わずびくりとしてしまった。
「ーー嫌なのか、もしかして」
傷ついたような声音に、慌てて首を振った。嫌なわけじゃない。
「違います、嫌なんじゃなくて……その、緊張して。それに、いいのかなって」
「なにが?」
「こんな贅沢しちゃって」
「またそれか。何回も言ったよな、クリスマスがダメだった分、正月は思い切って贅沢しようって。おまえもいいって言ったろ」
確かに言った。彼が仕事でどうしても休日出勤しなければならず、クリスマスは一緒にいられなかった。その分、年末年始の休みはずっと一緒に過ごそうと言ってくれて、私も了承した。……けれど。
「そう、なんですけど……そうじゃなくて」
「何、今度は」
じれったそうなその声に、後ろめたい思いがこみ上げる。付き合って1年近く、ようやくここまで来ておいてと思っているだろう。
わかっていながらも言わずにいられなかった。
「…………、いいんですか私で。こんな贅沢な、幸せな思い、私がしていいんですか」
少しの沈黙。次いで、ふうっと息をつく音。「あのな」とささやく声は耳のすぐ側で聞こえた。
「おまえの出しゃばらないところ基本的にはいいと思うけど、自分に自信なさすぎ。何回言ったら信じてくれるんだ?」
彼は大学の先輩だった。出会った当初から好きだったけど、人気者だから私とは縁がないと思っていた。それが、卒業前の今年初め、彼の方から交際を申し込んできたのである。
嬉しかったけど、ふとした時にいつも、夢の中にいるみたいな心地を覚えた。現実のこととは思えなくて。
今だってそうだ。彼に抱きしめられている私を、少し離れて見ているもうひとりの私がいる。
「好きだって、言われるだけじゃ足りないか。どうしたらもっと伝えられる?」
強い目で、これ以上ないくらい真剣な表情でのぞき込まれて、言葉を失う。そっと、再び重なった唇はやさしくてあたたかい。
ーー本当はわかっている。彼が向けてくれる気持ちも、与えてくれる優しさも。
それを素直に受け取ることをためらって、逃げ道を用意していたのは私だ。夢から覚めてしまった時に傷つかないようにと。
ぎゅっと、でも私が苦しくない程度の力加減で三たび抱きしめる彼に、心から申し訳ないと思った。
「ごめんなさい、私……先輩にずっと悪いことしてた」
好きです、と腕の中でつぶやいた。私からは初めて伝える言葉に、彼の体が震えるのがわかった。
「ほんとに?」
「はい」
「俺の気持ちは信じてくれてる?」
「はい」
「なら、もう『私でいいのか』なんて言うな。俺はおまえがいいんだから」
はい、と答えた声は彼の胸に吸い込まれた。そのまま彼の背中に腕を回し、ぬくもりに全身をゆだねる。ーーこんなに安心できるものだと、初めて知った気がする。
「あ、もういっこ、いやふたつ言っとくけど」
「え? ……なんですか」
「先輩はナシ。それと敬語も」
窓の外が続けざまに光った。
10分ぐらい歩いた先にある港で花火が上がったのだ。新年になったその時に。
「Happy new year.」
やけに上手い発音で彼が言う。窓越しの、上がり続けている花火の光をバックに。
「ハッピーニューイヤー」
私も真似してみるけれど、留学経験のある彼には及ばない。至近距離で視線を合わせて、少し笑い合う。
「今年もよろしく」
「こちらこそ、……よろしく」
今年だけじゃなくて、来年も再来年も、できればその先も。
口に出さなかった言葉の代わりに、体をさらにすり寄せる。お互いの体温をもっと近く、もっと強く感じられるように。
作品名:Happy New Year 作家名:まつやちかこ