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新年

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吐く息は白くて、気温の低さを視覚的にも表していた。ただでさえ体が震えるほどに寒いのに、体を殴りつけるかのように吹く風と空から降ってくる白で俺は心さえも凍てつく気持ちだった。
「……」
 言葉は出てこない。今はまだいい。雪が、風が、冷気が、本当の震えを隠してくれている。
 けれども、この雪が止み、風が収まり、冷気から逃れた時、俺は本当の震えに直面することになる。もうそれは決まったことであった。
「明里……」
 俺は彼女の名前を呟いた。しかし、彼女は俺に気づかないだろう。ただでさえ、この風だ。きっと俺が発した声は風に攫われ彼女の耳には届かない。
「届かなくてもいい。俺はお前に会いに行きたかった」
 俺は独白する。誰も聞くことのない罪を自白する。自らが犯した罪に大して、自らがそれを罰する。それは果たして傲慢なのだろうか? 俺は考える。俺のしでかしたことと甘く豊熟したあの日々のことを……。
「一服しよう」
 俺は疲れた。もう、やれることはやった。やれることはやったのにできなかったんじゃ、それは無理だったってことなんだ。コートのポケットを探った。硬い箱に手がぶつかる。タバコの箱だ。明里はタバコが嫌いだった。百害あって一利無し。そんなことを何度も幾度も言われた。震える手で、俺はタバコの箱を開く、残り2本だった。俺は一度に2本立て続けに吸う。だから、これが本当の最後の一服だ。
 風を手で塞ぎながら俺は咥えたタバコに火をつける。息を吸うことによって吸い込まれた火はタバコから煙を燻し立てた。
「はぁー……」
 俺はそれを吸って吐く。俺がタバコを吸うのは考える時間が欲しかったからだ。昔、爺さんが言ってた。考える時間が欲しい時はタバコでも吸ってろ、と。そして、俺は麻薬患者が二度と麻薬を止めれないようにタバコの虜となった。しかし、金欠の時は吸わなかったので、末期的ではないのかもしれない。
 そして、俺は考えてしまいそうになる。
 小野寺明里のことを。
 変わってしまった彼女のことを。
 俺はその気持ちを言語化してしまっていいのだろうか? きっと、一度でも言葉にしてしまえば俺の中で収まるものではなくなる。俺の中でのたうち回った挙句に結局は俺から出ていく。それは誰もが苦しむ事態だ。
「明里……」
 だから俺は自分の吐く白い息と煙を見つめながら彼女の名前を呟く。決して言葉にしてはいけない気持ちを暴発させないため。
 さあ、何を考えようか? 自問自答の果てに待つものは自白なのだ。だから、俺は俺に問うてはならない。
 どうせなら、暖かい物語がいい。世界がこんなにも白くて寒いならば、俺は明るく色とりどりの暖かい世界を想おう。想いは通じる。故に起こる悲劇もある。世間ではそれを奇跡と呼ぶ。
 ……俺が起こしたのは悲劇だ。
 いかんいかん。さあ、思うんだ。考えるんだ。明るくて色とりどりで暖かい世界を――。
 時計をふと見た。0:00。ハッピーニューイヤー、ようこそ2013年。
 俺は新年を場末の喫煙所で寒さに震えながらタバコを吸いながら迎えた。あまりにも哀れで、あまりにも俺にふさわしくて、俺は思わず笑った。
 今はいいんだ。総て、今のままでいい。総ては俺が変えなければいい。
 果たして俺は変えられないで済むだろうか?
 明里を、その周りの人々を、全ての人々を――。
 思い上がりも甚だしい。いい加減にしろ。さあ、考えよう。本当に、俺が望む世界を――。
「ねえ」
 目を閉じて妄想に逃げようとした瞬間だった。俺は悲劇を呼んでしまった。望んで、俺にとっての奇跡、彼女にとっての悲劇を。
「誠一くんでしょ?」
 懐かしい彼女の声に、俺は愛おしい気持ちを爆発させそうになる。
 ――まだ、間に合う。だから、やめてくれ。
 俺は思考の泉の中で叫ぶ。俺の中で、俺を枷から解き放たないために。
「……人違いですよ」
 俺は口内に溜まっていたタバコの煙を吐き出しながら言う。俺の知ってる彼女なら、逃げていくはずだ。だから、早く――。
「タバコは百害あって一利無しって何度も言ったよね」
 なんで、逃げていかないんだ。
「……副流煙のほうが体に悪いですよ。早くどっかに行った方がいい。そのほうがいいに決まってる」
 寒さのせいか、それとも緊張からか。俺の声は震えていた。もう、よしてくれ。
「私、もう結婚したんだ」
 そんなことは知ってる。人の口に戸はかけられない。嫌でも、望まなくても望むものは耳には入るんだ。
「ははは、じゃあ、俺みたいな男なんざに声かけちゃダメッスよ」
 演じろ。偽れ。この悪夢を、俺が悲劇のヒロインを生み出してしまう前に、俺という存在を偽り抜くんだ。
「本当に、誠一くんじゃないの?」
「ええ。誰ですか、ソイツ?」
「貴方みたいにずっとタバコを吸ってた厄介な男。遊ぶことだけは人一倍好きなのに、危ない遊びには人一倍臆病だったの」
「はぁー、チキンですね。よっぽどのへたれだ。その男は」
「ねえ」
「はぁ」
「さっき、私の名前を呼んだでしょ?」
「……いえ。貴方の名前を俺は知りませんので」
「ずっと、この寒い中で待ってたんでしょ?」
「喫煙所はここらへんじゃここしかないんです。喫煙者には世知辛いものです」
「……そう。今日は月が見えないね」
「ええ。この雲ですから」
「けど、まだ今日は月が綺麗ですね」
「……ええ」
 そして、彼女は俺の前から去っていった。それでいいんだ。過ちを繰り返してはいけない。去っていく彼女の背中を見つめながら俺は2本目のタバコを吸う。
 俺はそれからはもう涙が止まらなかった。
 ――月が綺麗ですね
「俺の……、口説き文句じゃねえかよ」
 夏目漱石が好きだった。なんとなく、読んでておもしろかったから。特に深い理由はない。
 明里も夏目漱石が好きだった。彼女は夏目漱石の親友の正岡子規から好きになったらしい。
 俺らは夏目漱石をつまみに話を重ねた。そのうち、気持ちが高ぶっていき、俺は夏目漱石の言葉を使って気持ちを伝えた。
 当然、隠語のつもりだったけど夏目漱石が好きな彼女には通じるわけで、俺らはめでたく付き合った。そして、そこからが堕落の始まりだった。
「……いいじゃねえかよ。別に」
 アイツはまだ俺のことが好きで、俺もまだアイツのことが好き。でも、アイツにはもう夫がいる。だから俺はなにもしない。そもそもここに来たのが間違いだった。
 その後、俺は終電にタバコ臭い体を乗せて、居るべき場所へと帰った。
 たとえ、どんなに眩しい過去であっても、それに近づくことはできない。人間は3次元的存在だから、現在の自分しか知覚できない。だから、俺は、現在の俺は現在の彼女に過去を求めてはいけないんだ。
 今までの俺は暖かい世界を求めていた。結局は俺にとって冷たい世界のままだが、他人をこの世界に巻き込むことがなかった。その事実だけででも俺は満足だった。
作品名:新年 作家名:よっち