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ノクターン

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気が重い。

 なぜなら今から、大屋にかけあって家賃の支払いをしばらく待ってもらわねばならないからだ。かけあったからって、待ってもらえるとは限らない。次の仕事だって決まっていない。それより何より、あの大屋の性格からしてどんだけ嫌味を言われるか分からないからな。

 大屋は俺たちが住む部屋の向かいに住んでいる。廊下をはさんで斜め前だ。俺は覚悟を決めてノックをした。
「すみません。向かいの桜井です。ちょっとお話があるんですがぁ……」
 しばらくして顔を出したのは表情のない橘 篤博(あつひろ)だった。二十代半ば。シニカルでヒネた感じがする男だ。顔の造作は、熱血少年っぽいんだけど、性格がまるで反対なんだ。
「なに?」
「あのー 今月の家賃、もうちょっと待ってもらえませんでしょうか…… いま、日払いのバイトの面接受けてるんで、それが決まったらすぐに払いますんで……」
 そう。この篤博が、大屋なのだ。
「面接受かったんじゃないの? 」
「いま結果待ちなんです……あ、今日中にメールで連絡来ますんで」
「ふうん……」
 面接の結果なんてまるで興味ないように篤博は返事をすると、俺をじっと見た。

「あのさ、家賃タダにする方法教えてあげようか」
「え?」
「ちょっと中入って」
 篤博に招かれて彼の部屋に入る。
 俺たち店子と違って、篤博の部屋は広い。俺たちの部屋の四倍はある。ま、仕方ない、彼は大屋、兼、管理人で、このアパートを自宅にしているんだからな。
 しかし、タダって…… そんなありえない話ないだろう? いったい何を言われるやら……
「兄貴を困らせてくれたら、ここの家賃タダにしてあげる」
「はあ?」
 意味分からない。
「嫌いなんだよ。あいつが。……だから、どんな方法でもいいからあいつを困らせてくれたら、ここの家賃ずっとタダでもいいよ」
 篤博は自分と俺のために淹れたコーヒーを口に運んだ。
 うー…… いったい何を考えてるんだ…… こいつの兄は俺の親友だぞ。そいつを困らせるって……まじで言ってのか。
「方法はまかせる。……どお? いい話だと思わない?」
 俺は下を向いた。そんな事、出来るわけないだろ…… だって、俺はあいつのこと……
「返事はすぐじゃなくていいよ」
「困らせるって…………そんなのどうやったら証明できるんだよ」
 思わずタメ口になってしまう。もともとコイツは親友の弟なんだから。
「そうだなあ………… 俺が兄貴に会ってその様子で判断する。あんたが、実行した、って言った後で、兄貴に会って様子が変だったら合格だ」
「そんなの曖昧な……」
 篤博の突拍子のない話は現実味がない。俺はうなだれて自分の部屋に戻った。
 部屋では妹の絵美子が寝ていた。彼女はウツなんだ。俺はこいつの面倒もみていかなきゃならない。二人きりの兄妹だからな。
 二ヶ月前までは俺は普通に小さな会社で働いていたんだ。けど、その会社がいきなり倒産してしまった。わずかばかりの退職金と失業保険が出たけど、家賃の高い家にはいられない。引越そうとしたんだけど、無職だとどこも賃貸させてくれない。困っている時に顔出した高校の同窓会の二次会で橘 暢一(よういち)に会った。そう、篤博の兄で俺のかつての親友だ。
 話をすると実家がアパート経営をしている、って言う。両親がアパートを建ててそこの収入で生活していた、って話だ。今は老人ホームに入った親の代わりに、弟が大屋業をしているって話しだったんだ。
 で、俺と妹は格安でそこのアパートに入れてもらった、て訳。ただ、このご時世。就職が簡単に決まるはずもなく日々の生活は困窮していった。

「はあ……」
 こうなったら篤博の出した誘惑にのりそうになる。けど、いくら嫌いだからって兄貴を困らせるなんて本気で言ってるのかな。昔見たときは普通に仲いい兄弟だったけどな。いったい何が気に入らないんだろう……。ま、あの篤博の性格じゃ気に入らないことはいっぱいありそうだけど。
 暢一を困らせる? そりゃ、最強に困らせる方法を俺は知っているさ。けど、それをやっちゃ、俺もここに居られなくなる。うーん……

 その時、どこかからピアノの音色が聴こえた。
 ショパンのノクターン、第二番。ノクターンの中で一番有名な曲だ。
 廊下に顔を出して音色の出所を探ると、篤博の部屋からだった。アイツが弾いているのだろうか? なんて優しい音色だろう。ゆっくりとしたテンポで一音、一音を愛でるように鳴らしている。
 本人とのギャップに他の人が弾いているのか、と思ったりする。けど、あの篤博に友達がいるなんて思えないしな。

「お兄ちゃんのピアノだ」
 絵美子が音色を辿るために戸口から顔を出した。瞳に輝きが出ている。
「お兄ちゃんがよく弾いていたノクターン。誰が弾いているのかな。お兄ちゃんとそっくりの音色だ」
「違うよ。俺はこんな風に弾いてないよ」
「ううん。弾いていた。ずっと昔、こんな感じで弾いていたよ。私覚えているもん。あれから他の人のノクターン沢山聴いてきたけど、お兄ちゃんみたいに優しく弾いている人いなかった」
 急に絵美子は泣きだした。
「……こんな風に……弾いていたんだよ。あの頃は……お兄ちゃん」
 もう何ヶ月も感情を見せなかった絵美子が顔に手を当てて泣いている。絵美子の言葉は俺の胸に突き刺さった。……そうだ。ノクターンを弾いていた頃、俺たちは幸せだった。両親がいて家があってピアノがあった。学校から帰ってきたらピアノの練習をして、覚えたばかりのノクターンを何度も弾いていた。……暢一に聴かせたくて…………

「俺、ショパンが好きだな。ノクターンってやつ? あれ好き」
 高校時代の暢一はそう言って嬉しそうに笑った。穏やかな暢一。クラスで目立つ存在でなかった俺たちは何かと気が合った。音楽好きでクラシックにも詳しい暢一と当時ピアノに没頭していた俺。一時はピアニストになろうか、と本気で思ったくらいだったが、何もかもが中途半端だった。才能も親の期待も俺の情熱も。そんな時に暢一は俺のノクターンが聴きたい、ってリクエストしてきた。

 大して難しくもない曲だ。けど、暢一に聴かせるために何度も練習した。そう、何度も何度も。きっとその時の音色が絵美子の脳裏には残っているんだろう。あの恋慕のこもったノクターンは独特だったから。
 今流れているノクターンを篤博が弾いているのだとしたら、それは恋をしている音色ということなのだろうか? あの篤博が? 似合わない…… まあ、どんな人間だって恋をする権利はあるから、別にいいんだけど。…………やっぱり似合わないんだよな。俺は絵美子の肩を抱いて部屋に戻った。

 数日後、篤博に呼び出された。例の依頼の返事をするためだ。俺は日払いのバイトで手に入った一万円を差し出して、残りは後日にしてくれ、と頼んだ。篤博はものすごく不機嫌な顔をした。
「こんなことやってて、あんたはそれでいいのか? 」
 意味が分からなかった。
「どうしてピアノを弾かないんだ」
「ピアノ? 」
「あんたあれだけ弾けるのに、どうしてピアノを辞めてしまったんだ。どうして、そんな情けない中年オヤジになってしまったんだ」
「中年オヤジなんだから仕方ないだろ」
作品名:ノクターン 作家名:尾崎チホ