スピード違反の密室
真夏の車内で、頑固そうな中年の男がぼやくように呟く。運転中の若い男は困ったように返答した。
「ですから、壊れてるんじゃなくって、高めの温度に設定してるんですってば。クールビズだとか経費節減だとかで、あんまりガンガン冷房つけるわけにもいかないんですよ、今西さんも知ってるでしょ」
「にしたって、生温い風が出てくるだけじゃねえか。これじゃサウナとかわらねえよ」
困り顔の里田も可哀想だが、今西がぼやくのも無理はない。その日は例年稀に見る真夏日だった。そして、そんなやり取りをしているとき、うしろから別の車が猛スピードで追い抜いていった。
「おいあれ、スピード違反だろ。パトカーの前でいい度胸してやがる。無線機使うぞ。――あー、あー、聞こえるか。警察だ。そこの前の車、速やかに停止しなさい!」
そう、彼らはパトロール中の警察であった。そんな彼らを追い抜きした車の中には、運転手の男がひとりいるだけで、他には誰も乗車していないようだった。今西が無線機で呼びかけているが、聞こえていないのか無視をしているのか一向に止まる気配がなかった。そして、その車はそのまま走行し、うしろ姿すら確認できないほどに距離を離されてしまった。
「里田、もっとスピード出して追いかけろ。パトカーの目の前でスピード違反するような奴なんざ、この俺がしょっ引いてやる」
「は、はい!」
パトカーは速度を上げて、徐々に前の車との距離を詰めていく。だが、様子がおかしかった。それまで真っ直ぐと走行していた前の車が突如制御不能になったかのように、ふらつき始めたのだ。そして、そのままのスピードで電柱へと激しくぶつかってしまった。
里田が驚きの声を上げた。目の前で事故を起こすとは予想していなかったに違いない。だが、経験豊富な今西はさすがに冷静だった。
「ちっ、事故りやがった! 里田、救助に向かうぞ」
パトカーは、電柱にぶつかり停止した車に追いつき、ふたりはすぐに車外へと飛び出した。そして、男の状態を確認するために窓から覗き込んだ。そこでふたりが見たのはぐったりとして、泡を吹いている男であった。
「い、今西さん! この人、気絶しているんじゃ!?」
「慌てるな。助手席の窓を割って、ドアを開けるぞ。パトカーにハンマーがあるから取ってこい」
里田は急いでパトカーに戻り、ハンマーを持ってきた。それを受け取った今西は勢いよく助手席の窓を割りドアを開けた。半袖だったため服を捲り上げる必要もなく脈を調べることができたが、その脈は止まってしまっているようだった。今西は男の腕を見ながら呟いた。
「まずいな。早く救急車を呼べ。取り返しのつかないことになるぞ」
今西の指示により、里田は救急車を呼んだ。5分もしないうちに救急車は駆けつけ、男は病院へと運ばれていった。しかし、その数時間後、男の死亡が確認された。警察署に戻っていた今西と里田も、その報告を聞いて肩を落とした。なお検死はまだのため、死因ははっきりしていないという話であった。
「まさか目の前で、事故が起きてしまうなんて……。しかも、あんな簡単に人が死んでしまうなんて……」
里田は嘆いた。警察になったばかりの里田にとっては、こんな経験は初めてのことであった。だが、実は初めての経験であったのは今西も同様だったのである。
「ちょっと待てよ、里田。お前はあれがただの交通事故だと思っているのか?」
「え……? だって、あの男は俺たちの目の前で――」
「馬鹿野郎。車で事故っただけで泡なんて吹くものか。第一、頭部にも傷はなかったし、首の骨が折れていたってわけでもない。あれはな、俺の推理が正しければ殺人だ」
「さ、殺人事件!? 何を言ってるんですか、今西さん! 俺たちだって確認しましたけど、乗車しているのは運転手の男だけでしたよ? もちろんどこかに隠れられるような場所もなかったし、車から抜け出すような隙もなかった! 殺人事件だとしたら、犯人はどこへ消えたって言うんですか!」
「そこまで観察していて気付かなかったのか? 男の腕にはな、刺されたような跡があったんだよ。あれが死因だとは考えられないか?」
「ま、まさか、注射器で遅効性の毒を――」
「いいや、注射器で刺されたような跡ではなかったし、怪しまれずに毒入りの注射器を刺せる者など極僅かだろう。それに俺たちが窓から男の姿を確認したときには、まだ犯人は車内にいたんだと思う。その後、俺たちに気付かれないようにこっそり抜け出したんだ」
「俺たちに気付かれないように!? そんなことできるはずが――」
「いいから、黙って聞け。単純な話だ」
そこで今西は一呼吸置いて、こう言った。
「犯人はスズメバチだ」