深い珈琲の夜 -宵待杜#06-
ふわりと立ち上る、挽きたての珈琲の香ばしい匂い。
丁寧な手順で今挽いたばかりの深煎りの豆をセットし、細口の薬缶から少しずつ豆を蒸らして、だんだんと抽出するためのお湯を注いでいく。
お湯の注がれた豆がふうわりと泡立ち、綺麗なドームを形作る。同時に、さらに強くなる珈琲の香り。
その工程に深景は満足して、気を抜かないようにお湯を注ぐ。
ゆっくりと時間を掛けて抽出した珈琲をほんの少し火に掛けて暖め、深景は自分のカップに注ぐ。
窓辺に椅子とカップと本を持ち出して、そこに居心地の良い空間を作り出した。部屋の明かりは消して、手元だけをうっすらと洋燈で照らす。
カーテンで遮らない窓の向こうは、月もない深い闇。
熱くて濃い珈琲を一口、口に含んで、深景は本のページを開いた。
静かな夜の闇には、深い珈琲の味が似合うと思う。
文字に集中しては、ふとそれが途切れた瞬間に珈琲を飲み、窓の外を見上げる。
ひとりの夜には、そんなことを繰り返していた。
「良い香りだね」
「マスター」
ふと少し離れた所から掛けられた声に、深景が本から顔を上げた。
いつの間にか、奥から店主が出てきていた。珈琲の残ったサーバを持ち上げて、その香りに目を細めている。
「ごめん、もしかしてミルの音とかうるさかった?」
「いや、むしろこの良い香りに誘われたというところかな」
掲げたサーバのなかで、洋燈に照らされて透けた焦茶の液体がたぷりと揺れる。
「少しもらっても?」
「勿論」
まだ暖め直すほどの必要もない珈琲を、店主は自分でカップに注いだ。
その場で立ったまま、珈琲をすする。
「美味しいね。深景の淹れる珈琲は、いつも嫌な後口が残らない」
「それはどうも」
店主の素直な褒め言葉に、深景は控えめに微笑んだ。
それぞれまた静かに、珈琲を飲む。店主は沈黙の時間が苦痛にならない空気を作り出せるので、深景にとって、こういうように二人でお茶をする時間も、珍しく悪くないもののひとつなのだった。
「そういえば、蜜月は?」
「大丈夫。寝てるよ」
「そう」
ぽつりぽつりと交わされる会話。短い単語でも、店主は充分にその意図を汲んで端的に言葉を返してくれるので成り立つものだ。
蜜月と居るときは店主はむしろよく喋るような気がしていたが、人に合わせてくれているのではないかと、ふと気が付く。
「君は実は珈琲好きだよね」
「紅茶もちゃんと好きだよ」
「そうだね」
基本的には宵待杜でティータイムが行われるときは、約八割以上の確率で紅茶が選択される。ひとえに紅茶好きの蜜月の嗜好のせいだろう。
もともと珈琲も紅茶も好きだったため深景も紅茶を良く飲むが、たまにこうして珈琲が飲みたくなる。
店主や暁も同じように紅茶好きなのだと思っていたが、店主は珈琲も飲むのだとすぐに気が付いた。ここには、紅茶のための道具だけでなく、珈琲のための道具もきちんと揃っていたからだ。
「今日は彼女が寝ているから?」
「闇が深いから」
視線を投げた空は、新月。
星すらも今夜はなりを潜め、どこまでも暗い闇が広がっていた。
深景が見上げた空を追うように、店主も窓際まで歩み寄って、外を眺める。
「ああ、本当だ。こんな夜は珈琲を飲みたくなるね」
窓枠に手を突いて、身を乗り出すように空を見上げる。そんな子供っぽい仕草なのに、とても彼らしい。
深景の抽象的な理由でさえ、店主の中にはするりと馴染むようだ。
どうして解るのだろうと不思議だけれど、口だけではなく店主は深景の感覚を正しく捕らえていると思う。
「散歩をするには、月の明かりの冴えた夜も良いけれど、こんな日も静かに外を歩きたくなるね」
「今から黙って出て行ったら、暁さんが怒るよ」
うずうずと店主の癖が頭をもたげ始めているのを、深景がさらりとたしなめた。
夜の散歩は、彼の趣味らしい。気付いたら、店も閉めてふらりと留守にしていることがよくあるのだ。どこに行っているのかは知らないけれど。そして、必ず店主が出ているときは、暁も同じくいなくなっているのだけれど。
「彼女は僕が出て行くとしたら必ずわかるから。……やっぱりちょっと、怒るとは思うけど」
苦笑混じりに店主が言った。
「まあ、今日は我慢するよ」
「そのほうが賢明だね」
「代わりに深景の珈琲も飲めたから」
「それ、代わりとか関係なくない?」
「そうかな?」
ふふっと悪戯っぽく店主が笑う。つられるように、深景も笑う。
闇はまだ深い。夜もまだまだ時を残している。
空になったカップを置いて、うっすらと底に残った珈琲の水滴を店主は未練がましそうに眺める。そして、思い出したように言った。
「そうそう、深景、水出し珈琲はやったことある?」
「え? いや、ないけど」
「先日、水出し珈琲用の器機を入手したんだ。今度やってみてよ」
「上手くいくかな」
口にした言葉ではあやふやだが、その蒼の瞳は、興味深そうに一瞬輝いた。
「大丈夫。夏だし、蜜月に冷たいアイスカフェオレでも作ってあげればいいよ。生クリームでもホイップしてさ」
「……好きそうだね、蜜月」
そのできあがりを想像して、そしてそれを飲む蜜月を想像して、深景は密かに深く微笑んだ。彼女は甘くてまろやかなカフェオレを両手で抱えて、幸せそうに口にするのだろう。カラカラと鳴るグラスの中の氷のように、涼やかな声で笑うのだろう。
「水出しは抽出に時間がかかるから、なんなら今から作るかい?」
「そうだね……眠っている間に、出来てると良いから」
それに、と、深景は席を立ちながら付け加える。
「マスター、まだ飲み足りないんだろう? 水出しの準備が出来たら、もう一杯いれてあげるよ」
「それはどうも」
すっかり見透かされたと店主は頭をかきながら、水出し珈琲セットを取りに奥へ消えていった。
静かなはずの夜だったが、こんな夜も悪くないと思う。深く重い宵闇も、するりと柔らかい手触りに変えてしまうような。影に置いた珈琲は底が見えないほど暗いけれど、光に透かすと柔らかい琥珀に揺らめく。角度次第の、そんな変化もあるのだから。
作品名:深い珈琲の夜 -宵待杜#06- 作家名:リツカ