アトリエ
湖畔の小さな家が彼のアトリエだった。何の飾り気もない、人の入る場所かと疑ってしまうような木の小屋。この冬、僕は久しぶりにそこを訪れた。
湖の静かな景色は変わらずにそこにあった。水面に小さな波を一面に蓄えて、薄暗い日光をちらちらと反射させていた。足で踏む土の感触も、まどろむような空気の匂いも、何も変わっていなかった。
「アイツに会わなくなってから、僕は変わっただろうか」
遠い場所を思い出すような気持ちになって、その次には、自分のアトリエでキャンバスに向かうアイツの背中を思い出した。一向に筆が進まず嘆息を漏らす、それがいつもの姿だった。後ろで眺める僕は、そんな彼を何気なく心配しながら、それでいて心の隅では愉快な気持ちで見ていた。悲嘆を装うのが彼の癖だ、ぐらいに思っていた。それはいつかを境に、本物の嘆きに取って代わっていたのだが。
最終的に僕は彼を軽蔑した。前進しない人間は、僕の考える中で最も価値の低い人間だったからだ。彼の嘆息が漏れ聞こえる度に、僕の中では嫌気が募っていった。こんな奴が仮にも「芸術家」の冠を被っているのかと思うと、彼という存在も芸術家という存在も、この上なく滑稽に思えて仕方がなかった。彼の才能は当の最初に枯れてしまっていたんだ、と僕は知っていた。僕の目には彼が過去の賞賛にすがりついているように見えたし、それを挽回するだけの努力もしない彼はただの阿呆だった。
そんな事を考えて以来、彼との交際は途絶えた。もう少し彼の友達でいるつもりだったが、それ以上近くにいたのなら、自分もまた同種の廃人間になる気がした。
「アイツとは違う。僕はもっとまともな人生を行く」
結果として僕は逃げたのかも知れない。未だに、それを肯定する素直さも勇気もないが。今になって考えれば、その時手を差し伸べることが出来なかったのは自分の弱さではないか、そんな風に思ってしまうのだ。本当は彼の方が、重い看板を背負って立つ決意をした彼の方が、自分より何倍も強い人間だったのでは。
しかしそう思う度に、あんな廃人間に成り下がりたいのか、と囁く自分がいる。確かに、あの時の決別がなければ、僕は今頃どんな鬱屈した人間になっていたか分からない。あれから自分は真っ当な人間らしい生き方をした。それが出来なかったのは彼の不幸な所だ。
それだけが自分を正当化できる悲しい根拠。
ふと、軽い目まいに襲われ、僕は少しの間動けなくなった。アトリエの前に植わっている大きな木に手をついた。目の中をザラザラとした映像が通り過ぎる。すぐにそれは止んだが、木の皮の感触が目まいの粗い感触を思い出させるようで、僕はすぐに手を離した。ザラザラとした感覚が手のひらに粘り着いていた。
ドアの前に進むと軽く深呼吸をし、木の板をノックをした。呼び鈴くらい付けておけ、と毎回思っていたが、今となっては何とも思わなくなってしまった。ノックの悪いところは、アイツが音に気づかないというところだ。大抵は一回目ですぐに開けてくれるが、たまに何回か叩かないと気が付かない時がある。今回もすぐに中から顔を出すのでは、などと思って待っていた。
そんな事あるはずないのだ。
少し待ってから、僕は何の応答もないのを確認すると、ドアを開けて中に入った。続きの通路を行けば、そこはすぐに彼のアトリエだ。一歩一歩踏みしめるように進む。冷めた空気の中には、かびたような匂いも漂っていた。
そこが彼のアトリエだった。古い絵の具の匂いが微かに感じられる。一番奥の大きな窓のそばが、彼の指定席だ。いつもその椅子に座って得意の遅筆を披露していた。もう誰も座ることのない席。
ちょうど一年前のこの日、アイツは死んだ。近くの湖岸で、ぐったりと横になって死んでいたそうだ。
すぐに知らせが来た。僕は少なからずショックを受けた。ただ妙なことに、ちっとも悲しくなかった。それよりも、当然の事のように受け止めていた。見捨てたのは僕だけじゃなかったんだな、そう思って電話を切った。それから彼の葬儀があったが、僕は行かなかった。アイツの仲間と群れを為すことが、自分の中で軽蔑された。むしろ彼の死を悼む事の方に違和感があった。
その時初めてかも知れない。僕は自分が残酷な人間に思えた。そして、自分が間違っていたのではないかと疑った。それまで感じなかった痛みの感覚が、水の湧き出るように自分の中を満たしていった。見えない棘が意地悪くジリジリと差し込まれるようだった。その感覚は今日に至るまで、時折顔を出しては引っ込んでを繰り返す。まるで自らの罪悪を忘れさせないように。
部屋はちょっとした物の配置を除いては、どこも変わっていなかった。椅子の位置も、イーゼルの位置も。窓のカーテンは開いたままで、どうやら長い間誰もここを訪れていないようだった。たまった埃がそのままになっていた。
それは懐かしさか、それとも別の何かか。ひとまず戻って来たという感慨だけが感じられた。こんな場所に僕らはいたのか。今や何の温もりもない空っぽの家、吐く息ごとに白さが宙を舞う。骨を震わすような寒さが一帯を支配していた。気付けば陽も傾いていた。
イーゼルの上にはキャンバスが掛けてあった。それは風景画だった。どうもここの湖の情景を描くつもりだったらしい。彼の特等席に座ると、そこからの眺めと絵の風景とが一致した。太陽がほぼ顔を隠し、淡い夕闇が空を包もうとしていた。何とも言葉に表し難い景色、美しいの一言では勿体ない。この一瞬を彼は絵筆に託そうとしたのか。しかし、彼の絵はどこか違った。恐ろしかった。よく見ると、画面全体が歪んでいてあらゆる場所の均整が取れていなかった。淡い夕空は火焔を滲ませたようだし、ゆったりとした湖は涙を深くまで溜め込んだように濁っていた。
これが彼の最後の景色か。屈折した画面の向こうに溜め息が聞こえた。僕は瞬間、やるせない気持ちになって、そのまま椅子から動けなくなった。彼の才能の程は僕には分からない。けれども、彼を追い詰めたものは、彼の才能の無さなどではなかったはずだ。この絵は凡人の描く絵ではない。それだけは明らかだった。
夜がやって来た。漆黒の暗闇を星の輝きが射抜いた。窓からもそれは見て取れたが、僕の心には何の変化も生じなかった。ただ彼の火焔に焼かれることや、涙の中に身を沈めることばかり考えていた。しかしそれくらいで自分の罪が清算されるとも思えなかった。ましてや、まだ頭の片隅では「俺には関係ない」なんて声も聞こえるのだ。何処までも罪から逃れようとする強さはあるんだな、と自嘲した。
不意に、自分の右手にあのザラザラとした感覚が残っていることに気が付いた。それと同時に、人の血は何度洗っても落ちない事を思い出した。自分の犯した過ちはそこに現前としていた。彼のそばにいる程度のことが、どうして自分のマイナスになったと言うのか。僕は自分の矮小であることを思い知り、自分の卑劣であることを思い知った。
「お前は変わったな」
いや、元からこうだったのだろう。