桜吹雪の寺
桜吹雪の寺
夏の暑い盛りや、真冬の吹雪の日に亡くなったひとは、生き残った人々から恨まれることが多いのではないか。その位置が温帯と呼ばれる場所にあるだけに、日本の一年から真夏と真冬を除いても、快適に過ごせる日は随分多いに違いない。春の嵐や台風、地震などの場合を除外しても。
「お寺で待ってるからね。あの本を忘れないで持って来てね」
その大学の構内の中に停めていた車の中で男が居眠りから覚めたとき、そんな声が少し開けた車の窓の外から聞こえた。恐らく通話の相手に向かい、若い女性がそう云いながら通り過ぎたのだろう。もう一度聴きたくなる声だった。姿は見ていないのだが、そのみずみずしい弾力を感じさせる清らかな声からは、眩しいような笑顔意外を想像することは許されなかった。
「だから、辻本拓哉の処女作よ。ええと、タイトルは……『道を教えた星』だったかな。そうそう、間違いないわ」
戻ってきたその魅力的な声が、そう云ったのだった。
「うそ!電車の中に?貸してくれるって約束したくせに、もう」
若い女性は立ち止まって抗議している。車で寝ていた男は背もたれと共に起き上がった。顔立ちの整ったその若い女性のきれいな眼まで、五十センチという近さだった。お互いに驚いた顔をしている。きゃっ!と云って携帯電話を耳にあてている女性は車から離れた。
「すみません。驚かしちゃって」
「あっ、こちらこそ。起こしてしまって、ごめんなさい。ユウ、またあとで電話するね」
若い女性は電話器を耳から離して通話を終了した。
「立ち聞きじゃないけど、聞こえちゃったんですよ。今の話……」
「そうですよね。立ち聞きじゃないですね。寝てたんだから……」
笑っていた。想像を裏切らない眩しいくらいの笑顔だった。輝く長い髪の頭に、桜の花びらが一枚見えた。
「よかったら差し上げますよ。おっしゃっていた本ですが」
「えっ?あるんですか?」
「何冊も持ってるんです。だから一冊、プレゼントします」
「頂けるんですか?嬉しいです。本屋さんを探してもないんですよ。読みたい本が手に入らないと、余計に読みたくなるんですよね」
「お寺とか、云ってましたね」
「明日ですけど、おばあちゃんの七回忌なんですよ。それで、そのときにいとこから借りることにしたかったんです。でも、電車に忘れたって……」
「私の住まいにあります。何時に、どこのお寺ですか?」
「そんな……お住まいが近ければ、お邪魔しますよ」
「近くです。これから帰るところですから、乗って行きませんか」
「今日から読めるんですね。嬉しいです。今から、ご一緒させていただきます」
辻本の住まいは車で二十分以内のところだった。若い女性を助手席に乗せて辻本は車を発進させた。
「おばあさんは桜が咲く時期に亡くなったんですね。真夏とか真冬じゃなくて……」
「そうなんですよ。わたしが高校生になったときでした」
「……私は、辻本拓哉と云います。ちょうどあの小説を書き上げた頃、あなたのお祖母さんが亡くなったんですね。なんだか、因縁めいたものを感じます」
「あなたが!?あなたが、作者のかたですか?驚きました。こんなに驚いたことはありません」
「そうでしょうね。驚かせてばっかりで、ごめんなさい。ところで、あなたのお名前は?」
「宮本絢香です。二作目から最新作まで、全部読ませて頂きました。ファンクラブがあるなら入りたいって、思ってました」
「私も、宮本絢香さんのファンクラブに入りたいです」
「あっ!おばあちゃん!あのお寺の前にいました」
桜の大木のある寺だった。そのとき、吹雪のように無数の花びらが舞った。助手席の女性が泣いていることに、辻本は気づいた。
了