フェル・アルム刻記
男は信じられない面もちで、自分の胸元を見つめた。蒼白い刀身が彼の身体を貫通している。剣から発される蒼い闘気はやがて男の全身を包み込み、実体を伴う蒼い炎がめらめらと身体を燃やし始めた。
「滅せよ!」
すいっと剣を引き抜くと、デルネアは言い放ち、人間離れした速さで何回も剣を振り払った。
「ウェイン! さあ!」
デルネアに呼ばれた魔導師は静かにうなずくと、彼の持てる最大の魔導を行使した。魔導師は、結晶が象る“色”の膜に手を触れて、呪紋を刻み込みながらも、素早く詠唱を続けた。そして膜はまるでしゃぼん玉のように膨らみ、はじけた。
その時、とてつもなく大きな火柱が空間の底から立ち上った。火柱は不気味に色を変えつつ、徐々に魔導師の目の前に凝縮していった。とうとう一点にまでまとまったその魔力を、魔導師は男めがけて放った。
そしてまぶしい光に全ては包まれ――。
永遠とも思われた戦いに、終止符が打たれた。
* * *
ハーンは、さらにその後の知識が、自らの記憶として甦ってきたのを知った。やがて記憶は一つの光景を象っていく。
そこに居並ぶのは、長たるイシールキアをはじめとしたディトゥア神族達。彼はディトゥア達を前にしてひざまずき、深く頭を垂れていた。
「……そなたの罰は決まった。これは我ら、ディトゥアの総意である。もはやそなたはディトゥアを名乗ることは許されない。その身をバイラルと化し、また長きに渡るそなたの“意識”を、バイラルの体内に封じ込める」
「絶対の力を求めるなど――それを考えることさえ許されることではないこと。お前さんほどの者が、どうしたことか。……とはいえ、アリューザ・ガルドに“混沌”が紛れ込んだ。これは事実じゃ……」
「かつてのあなたの働きを考えても、また、やむなく“混沌”に魅入られてしまったことを考慮しても、あなたの犯した行為は……罪です。残念ながら」
居並ぶディトゥア達は彼に対して、めいめい言い放った。同族とはいえ、彼の為したことには同情の余地など無かった。
「だが、そなたの存在そのものを消されなかっただけ、まだ救いがあったと知るがいい。そなた、罰を受け入れるか?」
イシールキアの問いかけに対し、ひざまずく彼は言った。
「全て、受け入れます」
こうして彼の意識は封じられ、ディトゥアではなくバイラルとして幾多の転生を続けた。バイラルたる彼が生まれ育っていくのが常にフェル・アルムであったことは、運命なのだろうか?
この災いから数百年を経た今――ついに彼は覚醒した。
* * *
意識がハーンの身体に戻り――彼はゆっくりと目を開いた。彼は今、フェル・アルムの空高く浮遊していた。ずきんと、胸の奥が痛くなる。スティンで吸い込んだ“混沌”が、身体を苛んでいるのだ。
――“混沌”がこの地にある。それをもって再び世界を掌握するか?
「そんなことはしない!」
その声に抗うように、ハーンは頭を抱えて叫んだ。
――そうすれば絶大な力を持ち得るのだぞ? 滅び行くこの世界も安定するというのに。私自身の手によってね。
ハーンは、この声が自分の中から囁く声であることを知った。今までは単なる“知識”としてしか認識していなかった、“混沌”に魅入られていた時の自分が覚醒したのだ。
「だめだ! 僕はもはや過ちを犯さないと誓ったんだ! 〈帳〉やライカ、ルード達にね!」
――人間に対して誓うなどとは、笑止。ならば……その脆弱な意識が吹き飛ばされるまで、本来の私が持っている闇の力にせいぜい抗うがいいさ!
「があっ!!」
途端に、ハーンは五体が張り裂けて飛び散ってしまうかのような激痛に苛まれた。心の奥底からわき上がる誘いに身を委ねてしまおうか? だがハーンはかたくなに拒絶し続けた。悶絶する中で、ハーンは今までの出来事や、人々を思い出していた。〈帳〉、ディエル、ナスタデンをはじめとするクロンの宿りの面々、ライカに――新たなる聖剣所持者ルード。彼らの想いを踏みにじるわけにはいかない。
「ルード! 君達は、色々と頑張ってきたんだ! 僕も……それに応えなきゃならない……そうか!!」
ハーンは突如悟った。
痛みや誘いに抗うことすら止めた彼は、目をつぶって押し黙り、内なる自分に話しかけた。
「……全てを受け入れよう」
――全てを、だと? どういうことだ?
「“混沌”に魅入られていた時の僕を含め、僕の“記憶”に甦っている全ての僕自身を。結局のところ僕はただひとりの僕でしかないのだから、僕は全てを受け入れる」
内なる声はもはや押し黙り、それ以上語ることはなかった。と同時に、ハーンを苛んでいた激痛も収まった。
ハーンはゆっくりと目を開けた。
「僕は――“宵闇の公子”――」
負けたわけでもなく打ち克ったわけでもない。ハーンは臆することなく、自分が何者か、全てを受け入れたのだ。と同時に、ハーンの意識は再び深いまどろみへと落ちていった。そこに不安や不快感はなかった。