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フェル・アルム刻記

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五.

 さらに経ること一日。
 途中、魔物の襲撃にもあわず、ルード達はことのほか早く、麓の近くまで辿り着くことが出来た。夕刻には街道沿いにぽつりぽつりと民家が見えはじめ、日が暮れる頃にはラスカソ村の門にまで辿り着いた。
 サラムレを出てから四日も経つというのに、まともな休息など数えるほどしか取っていない。いかに一行が丈夫な体を持っているとはいえ、疲労はずっしりとのしかかる。一行は、スティンに辿り着いたという達成感を感じる前に、襲いかかる睡魔と戦っていた。
 ルード達は手近な宿に入ると、即座にベッドに横になった。毛布の心地よさを存分に感じながら、いつしか彼らは寝入ってしまった。

* * *

 ふとライカは、ざわめく喧噪によって目が覚めた。風を感じるアイバーフィンは、バイラルより遙かに耳ざといのだ。外の様子がどことなくおかしいことに気付き始めた。

――なぜ逃げようなんて言い出すんだ? あんたは……
――分からんか!? あれを見ろよ……黒い雲だ! 俺達のクロンは、あれに飲まれて何もかも無くなっちまったんだぞ!

(黒い雲って?! まさか!)
 窓際を通り過ぎた声に、ライカは飛び起きた。長いこと馬にまたがっていたため、全身を襲う筋肉痛に顔をしかめつつ、彼女は窓の外を見る。はっと大きく目を開いて、窓硝子に張り付いた。
 窓の向こうの情景――本来そこにあるべきスティンの山々を覆い包んでいるのは――黒い雲だ。“混沌”を呼び込むその暗黒は、とうとうスティンの山を飲み込み、高原に迫るところまで近づいていたのだ!
「ルード! 〈帳〉さん!」
 ライカは同室の二人を揺さぶり起こした。
「うん? ……まだ夜なんじゃないのか?」
 寝ぼけ眼で外を見たルードは、不機嫌そうに言うと再びごろんと横になった。
「しゃんと起きてってば!」
 ライカはルードの片腕を持つと、唸りながらルードを起こそうとした。
「暗いのは夜だからではない。ルードよ」
 〈帳〉は言った。
「どうやら時すでに遅かったかもしれんな……黒い雲が、ついにこの地まで飲み込もうとしているようだ」
「まさか?!」
 ルードはがばりと起きた。それまで彼の腕をつかんでいたライカはよろめき、壁に頭をぶつけた。
「……! ルードぉ!」
 後頭部を押さえて、ライカはうらめしそうにルードを見た。
「ご、ごめん、ライカ」
 ルードは窓の外を見つめた。信じたくない事実を目の当たりにした彼の表情がこわばる。
「……そんな!!」
 ルードは窓に駆け寄った。ライカはルードの横に並び、忌まわしい状景をともに見つめた。窓の格子をつかむルードの指が、ガチガチと震える。ここから高原まで辿り着くより早く、黒い雲――“混沌”が高原を覆うだろう。
 ようやくここまで来たというのに、自分達は何も出来ずに、スティンの高原が飲み込まれるのをただ見ているしかないというのか? とてつもない恐怖と同時に、深い哀しみと悔しさに包まれたルードだが、出来ることは窓をガタガタときしませることぐらいだった。
「……〈帳〉さん! 魔導を使って、あの高原まで行けないの?! ハーンは、あの中にいるかもしれないのよ?!」
 ルードの様子に見かねたライカが〈帳〉に向かって叫んだ。
「そうするつもりだ」
 〈帳〉は言った。
「どうやらハーンも今、高原にいるようだ。先だって放っていた術が、彼の位置を教えてくれた。ハーンを助けなければ!」
 〈帳〉はすくと立ち上がった。
「とにかく外へ! ある程度の広さがないと、転移の魔導が行使出来ない」
 ライカもこくりとうなずき、戸口へ急いでいた。黒い雲など何するものか。ライカの顔には強い決意が込められていた。

 しかし――。
「待った!!」
 絶望を感じながら外の様子を窺っていたルードが叫んだ。
「雲が……雲の様子がおかしい」
「どういうことなのか?」
 〈帳〉はルードの後ろから、窓を覗き込んだ。
「あれ……見えますか?」
 ルードが指をさした。
「あれは……ムニケスの山の辺りでしょうか?」
 ルードは見ていた。黒い雲は忌まわしげな渦を巻きつつも、一つところに集まりつつある。その様は、さながら竜巻のよう。黒い雲は、スティンの山のとある一点に足をおろしているかのように見えるのだ。
「私は片目しか見えないからな……様子を聞かせてくれ」
 〈帳〉が言った、その時。
「見て! 剣が!」
 ライカの言葉にルードは振り返った。壁に立てかけてあったガザ・ルイアート。その刀身が、まばゆいばかりに光り輝いているのだ。刀身を鞘に収めてなお、まばゆく輝く光は、人智を超越した荘厳な感じを抱かせるものだった。
 ルードは黒い雲の様子が気になりながらも聖剣を手にとって、決心したかのように刀身を露わにした。その瞬間、刀身が放つ、まばゆいばかりの光に周囲は覆い包まれ、ルード達は目をつぶった。

 ルードの頭の中に去来するのは、膨大な量のイメージ。光を放つ聖剣が所持者に送り込んでくるそれは、かつての聖剣所持者の様子、戦いの歴史であった。それらのイメージは一瞬にしてルードの中を駆け抜けていったため、ルード自身も把握しきれなかったが、聖剣自身が経験した最大の出来事、冥王ザビュール降臨についてはルードの脳裏に鮮明に焼き付いた。英雄イナッシュと宵闇の公子レオズス、それに対峙するは禍々しき冥王――。ルードは、まるでその場に居合わせたかのような衝撃すら覚えた。

 聖剣は徐々に光を失い、刀身の色はまたもとの鈍い銀色に戻っていった。
 全てが収まって。一同はお互いの顔をただ見合わせるしかなかった。ややあって、ルードが言った。
「そう言えば……黒い雲だよ! あれはどうなったんだ?」
 ルードは剣を手にしたまま、窓際に戻った。
「え?!」
「どうした?」
 ルードの驚きように、〈帳〉とライカは窓に駆け寄った。
「見てよ、〈帳〉さん、ライカ! 無くなってる。雲が山の向こう側にまで退いてるんだ!」
 ルードの言うとおり、今までスティンの山々を覆い隠さんとしていた黒い雲は姿を消しており、山の頂の向こう側にちらりと見え隠れするまでに退いていた。
「確かにな……。だがハーンが言っていたように、雲がいったん退いた後、“混沌”が押し寄せるのか?」
 それこそ三人が恐れていることであった。彼らはもはや何も語らず、固唾を飲んで次なる変化を見守った。
 だが、何も起きなかった。
 黒い雲はスティン山地の頂の向こう側まで後退したまま、留まっている。
「……ともかく、高原へ行ってみませんか? ハーンがいるはずなのでしょう?」
 ルードは拍子抜けをした面もちで言った。ライカと〈帳〉もうなずき、宿の外へと出るのであった。



作品名:フェル・アルム刻記 作家名:大気杜弥