フェル・アルム刻記
三.
白銀の髪と、それに対照的な深紅の衣に身を包み、聖獣カフナーワウを従える英雄。その者こそユクツェルノイレ。大いなる神君にして、大地の神クォリューエルの息子。
ユクツェルノイレは“混沌”たる大地に平和をもたらし、唯一の国家フェル・アルムを建国した。今より千年も昔のことである。神君と称されるかの王の統治は百六十年の長きに渡り、崩御した後はアヴィザノ北方のアヴィザノ湖に水葬された。アヴィザノ湖はユクツェルノイレ湖と名を変え、現代に至っている。そして今なお神君は、フェル・アルム全土を見守っているのだ。
フェル・アルムの民であれば知らない者などいない伝承であり、数ある歴史書の冒頭には必ず記されている事柄である。
しかしながらサイファには白々しく思えてならない。
* * *
混乱のまっただ中にあるフェル・アルムにおいて、ここユクツェルノイレ湖は、あいも変わらず紺碧の水をたたえている。神秘的なその眺めを見れば、神君が今もフェル・アルム全土を見守っているように感じよう。そしてまた、昨今の忌まわしい出来事こそ、偽りであるかのようにも。
湖畔には多くの人々がつめかけていた。彼らは一様に手を組み、ひざまずいて、湖に浮かぶ小島――偉帝廟《いていびょう》に向かって祈りを捧げている。神の名において中枢の騎士達が動き出したのだから、これでフェル・アルムは救われる。何も恐れることはない。神君が救ってくださるのだ。
そのような救いを信じて、人々は無心に祈りを捧げている。
サイファは小高い丘から湖を見下ろしつつも、神君と呼ばれた偉大な王は実在しないのではないか、とあらためて確信していた。
――ここフェル・アルムは、もともとはアリューザ・ガルドという世界の一部なのだ。今は隔絶されているが、本来の世界に戻るべきなのだ――。
トゥファール神の使徒であるジルと出会い、彼の力を目の当たりにしてから、サイファの価値観は大きく変わった。唯一の真実であると思われていた事柄が、虚構に塗り固められていたのに気付かされた時、サイファは衝撃を受けた。だがそれ以上に、彼女は衝動に駆られた。その衝動は今もサイファを突き動かしている。
「……神君が実在しない、と言ってたわよね?」
ふと漏らしたルミエールの言葉が、まさに今の自分の思いと重なったために、サイファはひどく驚き、目を丸くしてルミエールを見た。
「驚いた! 私は、今まさにそのことを考えていたんだ」
そう、とルミエールは豊かな紺色の髪をかき上げて、相づちを打った。
「あなたがそのことを言った時、私には信じられなかったわ。今までの歴史、それに王家自体も否定しかねない言葉だったのだからね」
「どこの文献を見ても、そんな突拍子もないことは載っていない。神君の存在うんぬんは、あくまで私自身の考えだ。サイファとしての、ね。だが、それこそが真実の一片であるような気がしてならない」
サイファは顔を曇らせた。
「だけれど、もしかりに私がこの旅の果てに真実をつかんだとして、それが今までのフェル・アルムを否定しかねないものだとしたら……真実を語るべきだろうか。ドゥ・ルイエとして私はどうすればいいのだろうか?」
「あなたの臣下であるアノウとしては、陛下の望むままにするべきだ、と答えるでしょうけど……」ルミエールは言った。
「それはあなたの望んでいる答えではないでしょう?」
「そう」サイファはうなずいた。
「ルイエの立場というのは、時として私を不安に陥れる。私のごとき若輩者の一言によって国家を、人々を動かしてしまっていいのか。私は……自分自身がよく出来た人間だとは、とても思っていない。そんな者が……」
ルミエールは静かに首を振った。
「『あなたの行動こそルイエに相応しいものだ』そうリセロ様がおっしゃってたわよね。覚えてる?」
サイファはうつむいたまま、小さくうなずいた。この旅を決意した時に、執政官クローマ・リセロが言った言葉である。
「私も同じよ。あなたが今やろうとしていること、それが結果的に今までの歴史を否定することになるとしても、別にいいじゃない。昔のしがらみにとらわれることなく、真実を見つめるべきだと、私は思うわ」ルミエールは湖を見つめた。
「とは言っても、今はそれを人々に明かすべきではないと思うの。今、混乱に陥ってる中で、人々はすがるものがほしいのよ。それを否定することは出来ないわ。たとえそれが偽りであったとしても……ね!」
不意にルミエールは、うつむいたままのサイファの背中を思い切り叩いた。
「痛っ!」
思わず転びそうになったサイファは、背中をさすりつつ、ルミエールをうらめしそうに見る。
「何をするんだ、ルミ!」
「気合いをつけてあげたのよ!」
ルミエールは笑った。
「大丈夫、いずれ時は来るわ。全てがうまくいくようになる時が。それを今は待ちましょう。……とにかく自信を持って。サイファ、あなたの眼差しが自信に満ちあふれている時こそ、あなた自身も輝いて見えるのだから。ルイエとしても、サイファとしても」
さすがに照れくさくなったのか、ルミエールは思わずそっぽを向いた。サイファは照れている姉の肩をぽんと叩いた。
「……ありがとう、ルミ。私なりに頑張ってみる。まずは真実が知りたいのだ!」
真摯な眼差しと、毅然とした口調。サイファは決意のほどを新たにしていた。デルネアが鍵を握っているような気がしてならない。そのためにも、自分達は烈火を追う。
真実をつかむこと。それこそがサイファを動かしている衝動にほかならない。
「見て! サイファ」
ルミエールが指さした方向を見ると、湖の遙か対岸では、もうもうと砂塵が舞っている様子が見てとれた。
「あの砂塵が人の群によるものだとしたら、尋常ではない数ですな。その数、千人はゆうに数えましょう」
未だ父親役に慣れないエヤードは、普段の口振りで言った。
「そうすると、あれはやはり烈火の行軍しかありえないかな。“父上”?」
サイファが“父上”の箇所をことさら強く言ったため、エヤードははっとなった。
「はい、そうだな。ええと、あれが烈火だとして、彼らがこのままの調子で行軍を続けたとして、明日の朝にはサラムレに入りましょう……だろう!」
しどろもどろになりつつも必死にエヤードが説明をするものだから、サイファは吹き出してしまった。ルミエールも笑っている。
「ただ、大軍であるゆえに、必ずやサラムレでは補給を行うだろう。大丈夫、まだまだ追いつけるさ」
気を取り直し、エヤードは言った。
「私達も湖で休憩したら、再び彼らを追うことにしよう」
サイファはそう言って丘を下りはじめ、振り返ってルミエールに呼びかけた。
「ルミも早く来るがいい。水辺はさぞかし涼しいことだろうからな!」
神君などいない。
湖畔にて祈りを捧げている人々にそのことを告げるのは残酷でしかない。それが真実だとしても、一片の希望に全てを委ねている人々を絶望の淵に追いやる真似など、王であるルイエとして出来るわけがない。