フェル・アルム刻記
§ 第四章 水の街サラムレにて
一.
夕方、そして夜を過ぎてもルードら旅の一行は歩みを止めることがなかった。暗黒に覆われた夜の空を見上げて感じるものは、不安と恐怖のみ。各々は感情に押しつぶされないように何をしゃべるでもなく、黙々と馬を進めていった。
しかし、夜の世界は決して安穏としていられるものではない。闇を渡って、魔物が出現するかも知れないからだ。現に朝までの間に、ルードは二匹の化け物を倒していた。
魔物の様子を見計らって斬りつけた刀身が鈍く輝き、魔物は一撃のもと屠《ほふ》られる――。
ルードの太刀筋を〈帳〉が賞賛するも、ルードはどうしても忘れられないことがある。切り裂く時の肉の感触、断末魔の叫び声、何よりライカの怯える顔――。それらがかつての幼い頃の記憶と重なる。もしデルネアと対峙して、彼と一戦交えることになった時、自分は戦えるだろうか? 馬上でルードは、剣の鞘をさぐりながら自らに問いかけた。
(ハーンに習った剣術だけど、俺は……人を斬るためには使いたくない!)
北方スティン山地に端を発するクレン・ウールン河は、下流に行くにしたがって河幅を広げ、サラムレ周辺にあっては半メグフィーレにもなろうか。山からの雪解けの水が河の流れを豊かに潤している。美しく、静かなたたずまいをみせている河。十三年前、様々なものが流れ着き、水が朱に染まった惨状など、みじんに感じさせない。
夜どおし馬を歩かせたルード達は、朝焼けに色を染めている美しい大河を前にして、語る言葉を持たなかった。海、そして大河とともに時を重ねてきたサラムレの街は、古来より水上の交通が発達している。ルシェン街道を南下してきた旅人はクレン・ウールン河を船で渡り、そのまま市内へと入っていくのだ。
時は七月四日の朝。ルード達は朝一番の船に乗り込むと、しばし水上の人となった。
波に合わせてゆらり、ゆらりと身体が揺れる。初夏の朝方の暖かな日差しを受けながら、ライカは今、自分が夢うつつにあることが何となく分かっていた。隣にいるはずのルードの声が、やけに遠く聞こえる。水夫と話してるであろう会話の中身を、ライカは知ることが出来ない。それは自分の知らない言語だから。ちくり、と刺すような不安を感じながらも、ライカは意識を夢に向けていった。
* * *
緑の情景が辺り一面を覆っている。
あきらかに夢の世界と思える中でライカは気が付いた。すると緑は彼女の思ったままに、よく知っている感のある草原と森とに姿を変えた。さらに向こう、高く灰色にそびえる壁のようなものは、ひょっとしたら谷地の崖なのだろうか?
(ここは……ウィーレル?)
ライカがそう感じた瞬間、全ての景色はなじみ深いものに変貌した。
アリューザ・ガルドの北方、アリエス地方。ふるさとのウィーレル村の道ばたに彼女は立っていた。右手にあるのは友人の家の牧場。牛達が草をはんでいる。そして、空を見上げると、アインの山からレテス谷に向けて、ひとりのアイバーフィンが時折翼を光らせながら滑空している。
その女性はライカに気付いたのか、飛ぶ向きを変えて、手を振りながらライカのほうに降りてこようとしていた。
(…………?!)
ライカは驚き、口元をおさえた。彼女はミル・シートゥレイ。ライカの母親だったのだ。
(お母さん……)
二年前に山で行方知れずとなった母親。今自分は夢の中にいるのだ、と分かっていてもこみ上げてくる感情。ライカは熱くこぼれる涙を隠すことなく、母親ミルの様子を目で追っていた――。
だが、様相は瞬時に一転した。青い空が暗黒に染められたのだ。ミルは慌ててライカのもとに辿り着こうとするが、すぐに暗闇の中に捕らわれ、消え失せてしまった。
それまで緑に映えていた野原は、その地面が波のごとく不自然にゆらぐと、どろどろに腐り始め、遠くのほうから徐々に暗黒の中へと姿を消していく。ほどなく、ライカの足下の土までが腐りはじめた。ライカは逃げだそうとした、が、腐った土にくるぶしが浸かりこんでおり、動けない。しかも何かが足首を押さえ込んでいる感すらある。
野原を消していった暗黒の中から、闇の球体が迫ってくる。ライカの前で球体は割れ、中から魔物が姿を現した。そのものには定まったかたちなど無く、黒々とした腕と思えるものが、どろどろとした粘液のような何かを滴らせながらゆっくりとライカの身体を捕らえんとする。
叫び声をあげたくても声が出ない。周囲を見渡しても、すでに村の姿などかけらも残っていない。
(これは夢よ……)
ライカは現実的に思いつつ、夢の中の様子に絶望していた。
その時、暗黒を切り裂いて一条の光が射し込み、魔物を消滅させた。いつの間にか、ライカの目の前には一降りの剣が浮いていた。聖剣ガザ・ルイアート。そしてどこから現れたのか、ルードが剣を手にすると、彼は頭上に剣を掲げ――。
「ライカ」
* * *
「ライカ?」
その呼びかけでライカは目を覚ました。ルードがかがみ込んで、ライカの顔を窺っている。ライカはしばし、今見ている光景が夢なのか現実なのか把握しかねた。
ようやく、先ほどの光景が夢であったことを理解したライカは、ほうっと大きくひと呼吸を入れる。少しずつ、夢の中身を忘れていくのを感じながら。
しかし、寂しさ、やり切れなさ――ライカは、そんな感情に押し流されそうになっているのが分かる。〈帳〉の館にいる時分からこのかた、全く感じずにいたというのに、ここに来ての不安はなんなのだろう?
「疲れてるんだろ? もう少し、宿に着くまでの辛抱だ」
ルードはライカの隣に座り込み、大きく伸びをした。と、ライカが彼の裾をつかんできた。ルードを見つめるその顔は何かを言いたそうだったが、ルードには分かりかねた。
「どうしたのさ」
「ううん、なんでも。……ちょっと疲れただけかな?」
ライカは自分でも不自然だ、と思うような笑みを浮かべ、ルードの肩に頭を預けた。
やがて船は水門をくぐり、サラムレの街へと入っていった。