おぼろげに輝く
2
翌日の午前中、約束通り曽根ちゃんから電話がきた。
『もしもし、塁?』
「ん、俺。おはよ。今何時」
『もう十時だけど』
俺は仕事部屋に掛かるミッドセンチュリーを意識した黄色い電波時計に目を遣り「寝過ぎた」とポツリ零すと、そこから暫く、曽根ちゃんは口を開かず、俺は布団から這い出るとすぐにエアコンのリモコンを手にした。
「寒いね。曽根ちゃんは? 寒くないか?」
『寒いよ、冬だし。今日世の中はクリスマスだって、知ってる?』
俺は再度、布団に潜り込んでヌクヌクしながら「そうでしたね。会っとく?」と返す。曽根ちゃんは俺の言葉に被せるような素早さで『うん!』と言うので俺は口の端から零れる笑みを抑えきれなくて、曽根ちゃんの家を訪問する事にした。俺はケーキを買って行くと約束し、電話を切るとすぐ、矢部君に電話をした。結婚式の翌日で、お二人よろしくやってんのは重々承知だけれど、他に頼れる人がいない。
「あ、矢部君? つーか久野君になったのか?」
『塁? おはよ。昨日はありがとうね。どうしたの?」
電話の向こうで智樹が俺の名前を口にしているのが聞こえる。
「ねぇ、この辺で美味いケーキ屋さん知らない?」
そう言うと、携帯の向こうから不敵な笑い声が聞こえてきて『一緒に過ごすんですねー、分かります』とやや上からの目線にイラっとしながらも「教えろ」と強気に押した。
二人の家の近くに美味しいケーキ屋があるとの事で、そこに寄ってイチオシのチョコケーキをふた切れ買い、曽根ちゃんの家に向かった。昼前には指定されたアパートに到着した。
道の向こうから、智樹ぐらい背の高い短髪の男がスニーカーの踵を擦りながら歩いてきた。首にはヘッドフォンを掛け、片手にはスケボーを持っていた。スケボーは乗るものだし、ヘッドフォンは耳に当てるものだよな、とぼんやり考えながら、住人と思しきその男と顔を付き合わせた。俺がアパートの階段を上がろうとすると、彼は俺より先に二段抜かしで上がって行った。俺の目的地である曽根ちゃんの家の前で、ドアをノックしている。
玄関が外側に開かれ、彼を見遣った曽根ちゃんは「あぁ」と一言溜め息みたいに漏らした後に、周辺視野に俺を捉えて露骨に顔を引きつらせた。俺は彼らの関係性も知らないし、どうして彼がこのタイミングでここにいるのかも知らないし、曽根ちゃんと彼の会話が開始されるのを待つ外なかった。
「何で来たの」
無機質な目で男を見ている。
「今日は彼氏が来るからって、私、言ったよね」
無機質だと思っていた彼女の瞳に、怒りに似た色を感じる。声色も、聞いた事がない凄みを感じさせるものだ。男はスケボーを縦にクルリと回しながら俺をチラリと見遣った。
「どんな奴かなーと思って。お前の新しい男」
俺はダウンのポケットに手を突っ込んだまま、頭をぺこりと下げた。
「子供みたいだけどかっこいいじゃん。歳下?」
格好良さでは彼の方が格上のように思えるのは俺だけだろうか。曽根ちゃんは首を振り「私とタメだよ。帰って」とサンダルを突っかけて玄関の外に出て来た。
「昨日は相手してくれたのにな。悲しいな。まぁ、いいや。また来るから」
そう言うと彼はスケボーを抱え、ヘッドフォンを耳に当てると俺の横をすり抜けて行った。
昨日は相手してくれた、だと? 聞き捨てならない。何の相手だかは想像がつくので余計に胸がかき乱される。
「入って」
言われるがままに玄関を入ると、ふんわり女の子らしい香りがした。だが俺の部屋とそう変わらない散らかりようで、違いといえば、ベッドとテーブルがある事ぐらいか。
「これ、約束のケーキ、買って来たから。後で食おう」
曽根ちゃんに箱を渡す時の俺の手は、明らかに震えていた。昨日は何の相手をしたのか。彼は誰なのか。
曽根ちゃんは俺がここに到着するであろう時間に合わせてお湯を用意してくれていたようで、すぐに紅茶を出してくれた。目の前に、湯気が沸き立つ紅茶が置かれるが、寒いのになかなか手が付けられない。対面に曽根ちゃんが座ると、彼女は観念したかのような顔を見せ、表面張力を破った水みたいに、言葉を零し始めた。
「あの男は冨樫充。十五人目の彼氏、と言うよりセフレ」
すっかり紅茶の存在を忘れ、頭の中に穴が空いたみたいな強烈なショックが駆け巡った。セフレって、普通の会話にでてくるのか。きゅうり、大根、エアコン、セフレ。おいおい、おかしいだろ。
「て事ぁ、昨日電話掛けて来たのは、彼?」
「そう。十五人と付き合ったって言ったけど、彼氏としてではなくて、殆どがセフレなんだ。人と深く関わるの、苦手で」
無表情の上にどこか引きつるその顔を見て、俺はなんと言っていいのかわからず、口を噤む。淀んだ沈黙の時が流れる。
「軽蔑した? よね」
嘘を吐くべきか迷い、嘘を吐くのは俺の性分に合わないと思ったし、何より彼女の、俺に対するデレ顔を信じたいと思うと「軽蔑した」と正直な言葉が口をついて出てくる。
「でも私は冨樫とは関係を断ちたいって、塁と付き合い始めてからずっと言ってきたんだ。でも半分レイプみたいに犯されてる」
日常生活に融け込んでいるかのように出てきた「レイプ」という言葉に、矢部君と義父との関係をなぜか思い出した。あれ程までに悩んでいた矢部君と、空気を吸うように「レイプ」という言葉を発するする曽根ちゃん。
「冨樫はしつこい。これからもこんな事があると思う。でも、その、私は塁の事......」
俯いてしまった顔はきっとりんご飴みたいに赤いんだろうと思うと、俺が冨樫から曽根ちゃんを守らなければと言う強い使命感に駆られる。身体の大きさからいったって、強いのは冨樫だという事は、火を見るよりも明らかなのだけれど。
「もう、何があっても、十六人目の俺以外と関係を持たないって約束してよ。指切りげんまんで針千本ケツからケツバットでブッ刺すって事で」
そう言い小指を立ててテーブルに置くと、曽根ちゃんは暫く俯いて考え込んだ末に「冨樫はしつこい。私は追い払う自信が無いんだ。その、あの、塁がそういう時は守って......」
そこまで言うとそれから先は進めない程頬を赤らめて顔を硬くしている。
「俺じゃ勝ち目がないかもしれないけど、守るよ。十六人めで止めて見せる」
すると俯いていた顔をあげて、キラキラの笑顔で俺を見た。キラースマイル。こういうのを言うのか。俺は彼女の笑顔に殺される。彼女は細くて「小指」と言う名に相応しい小さな指を俺の指に絡ませ、数回振り、解いた。
「ケーキ、食おうぜ。久野夫妻のオススメだ」
そうなんだ、とまた平坦な曽根ちゃんに戻り、ケーキの準備に取り掛かった。
目の前に置かれた茶色いケーキを突きながら、俺は努めて明るく切り出した。
「曽根ちゃんは何で俺の告白にOKしたんだ? セフレの冨樫君がいるのに」
首を傾げ、フォークに刺さったイチゴを見つめたまま「何で......」と深く考えているらしかった。俺は彼女が口を開くまで黙ってケーキを食べていた。甘いものは好きだ。