おぼろげに輝く
18
「エアコンエアコン!」
散らかった部屋の中からリモコンを見つけると、すぐにスイッチを入れ、お湯を沸かし始めた。
曽根ちゃんは部屋が温まるまで上着は脱がないようで、そのままの格好でラグに座った。俺はお湯が沸く間にメールチェックをし、新しい仕事が舞い込んできた事に気づいた。
「ひゃー」
言いながらメーラーのクロスボタンをクリックする。
お湯が沸く頃には部屋も暖まり始め、曽根ちゃんは上着を脱いで再度ラグに座った。眠そうな目をしているのは酔っているからなのか、それともデフォルトなのか。
「お紅茶ですー」
湯気の沸き立つマグカップを目の前に置くと、嬉しそうに口端をキュッと引き上げる。それに口をつける事はなく、マグカップを両手で包み込んでいる。
俺はミニキッチンに凭れたまま、ズズッと一口すすって、砂糖をいれていない事に気づく。
「あそこの空いてるスペース」
ミニキッチンの横、ちょうどパソコンデスクと反対側を指差す曽根ちゃんに「が?」と先を促した。
「あそこを私の作業スペースにする。いらない家具は実家に送る」
曽根ちゃんが口から吐いている言葉の数々が、何事ともうまく繋がらなくて、頭の中がチグハグで、「何言ってんの」と口をついて出てしまった。髪をぐしゃっと掴んだ曽根ちゃんが口を開く。
「だって、恋が愛に変わったらここに住んでいいんでしょ。じゃあもう引越しの準備しなきゃ」
俺は大袈裟なぐらい目をパチクリした。瞬きしたところで、そこにある現実は変わらない。曽根ちゃんから吐き出された言葉も変わらない。現実を現実として受け入れるのに、長い時間を要する。目眩にも似た感覚を覚えた。
「あのさ、たった三ヶ月しかつきあってないんだよ?」
「時間なんて関係あんの」
ラグに後ろ手をついてリラックス姿勢だし、目は虚ろに小さじ一杯の笑みを加えた程度だし、心の中が全く読めない。俺は手にしていたカップをキッチンに置いた。暫くの沈黙の末、首根を掻いて険しい顔をした。
「俺だよ? 部屋汚いよ?」
「私も」
「無気力だよ?」
「私も」
「ちゃらんぽらんだよ?」
「私も」
似たモノ同士だから、当たり前なのだ。キッチンから、OAチェアに移ると、小さな座面に体育座りをする。やにわに口を開いたのは、曽根ちゃんだった。怠そうに「んー」と言ってからだ。
「私は塁と離れたくないって、その辺のおっさんにも誓えるよ。死に掛けて、意識が薄れて行く間にも、塁に連絡しなきゃって一番に思ったし、助けてくれるのも塁だって思ってた。目が覚めて塁が目の前にいた時に、あ、もう手放しちゃダメだって、思った」
俺は曽根ちゃんの方に目線を遣ると、ちょうど曽根ちゃんも俺に目線をくれた。
「恋が愛に変わった瞬間。多分あの時なんだ」
そこには、さっきまでの気怠げな顔に小さじ一杯の笑顔から、キラキラ光る笑顔が広がっていた。そもそもの始まりは、俺がこの笑顔を独占したいと思ったところから、なのだ。
恋が愛に変わる瞬間。それを疑問提起してくれたのは曽根ちゃんだった。あれがなければ俺は、淡々と彼女と付き合い、身体を重ね、何かを切っ掛けに二人の関係は壊れていたかもしれない。あの疑問提起があったおかげで、俺は恋が愛に変わる瞬間を掴み取り、殆ど時を同じくして曽根ちゃんも同じことを思っていてくれた。
「俺は嫉妬深いし口うるさいよ」
「私も」
「料理しないよ」
「私は少しならする」
「一人言多いよ」
「私も」
話をしながら俺は体育座りしていたOAチェアから飛び降り、一歩一歩曽根ちゃんに近づき、座っている彼女の腕を少し乱暴に引っ張って立ち上がらせた。彼女は怠そうに体を起こし、俺に対面した。
「俺は曽根ちゃんを愛してるよ」
「私も」
もう十分だ。これ以上何が要るというのか。彼女から「痛い」と声が上がる程きつく抱き締めて、「一緒に暮らそ」と耳元で囁いた。
くすぐったそうに笑う曽根ちゃんは笑ったまま無言で頷き、優しいキスをくれた。
俺の幸せを願ったのは誰ですか。こんな結末を用意したのは誰ですか。おぼろげに輝く瞳をこの世に引き戻したのは誰ですか。俺の目の前で目覚めさせてくれたのは誰ですか。
誰かが後ろで手を引いている。そんな風に思わずにはいられない程、俺の心の中は幸せに満ち溢れすぎて、道ゆく人に「幸せ、分けましょうか?」なんて言ってしまいそうなぐらいなのだ。
恋が愛に変わった瞬間、俺たちは前へ、前へと進み始めていたんだ。
FIN.