おぼろげに輝く
10
明日から仕事が始まると言う曽根ちゃんに、とりあえず今日は俺の家に泊まれと言った。俺の家からでも曽根ちゃんの家からでも、吉祥寺までは同じぐらい時間がかかる。
「はい、上着かして」
曽根ちゃんから上着を受け取るとハンガーに掛け、彼女はラグに座った。お気に入りのラグに手の平を沿わせている。俺はエアコンをつけると、やかんでお湯を沸かし始めた。
「矢部君とは何を話してた?」
曽根ちゃんは硝子天板に頬杖をついて「色々ー」と気怠気に言う。
「色々って何だよ。言えない事でも?」
片方の眉を上げて「言えるけど」と意味有りげな顔で俺をちらりと見る。
「君枝ちゃんも色々あったんだね。色々聞いた。それなのに何であんなに素敵な女性に育つんだろう。私だったらひん曲がってたな」
「間違いないな」
頬を膨らませて上目遣いで俺を睨みつける曽根ちゃんは、餌を取り上げられたリスのようで愛くるしい。
膨らませた頬を一旦緩め、ひとつ、短い溜息を漏らして曽根ちゃんは言った。
「塁の話も、聞いたよ。ごめん」
「何故謝る?」
彼女は頬に当てていた手で目をぎゅーっと抑え、また頬に戻す。
「何か、充の事。塁には分かんない、みたいな事言っちゃって。塁は親がいない辛さとかを分かってて充に接してくれてたんだなって思ってさ」
ピー、と耳障りな音を立てたやかんを火から引き上げて、マグカップにお湯を注ぎながら俺は言った。
「俺とあいつはイコールじゃない。俺は親はいないけど、俺には家族がいる。それに、俺の事を家族みたいに思ってくれる友達もいる」
マグカップの紅茶はエアコンの風にまけじと湯気を真上に立てている。今度は長く溜め息をついた曽根ちゃんは「塁はやっぱり凄いな」と言って髪をかき上げた。
その言葉に俺は大袈裟に首を傾げて、少し濃いめに入れた紅茶を曽根ちゃんの顔の前に置いた。俺の分は砂糖を少し。
「塁も君枝ちゃんも、色々あったのに、今は凄く幸せそうで、全然かわいそうなんかじゃなくって、そういう人がいるんだって分かって良かった」
智樹の思いが計らずとも伝わったという事か。俺は何度か頷いて、紅茶を口に含んだ。それから曽根ちゃんを見ると、彼女は困ったような顔をして笑った。
「何て言えばいいのか分かんないけど、塁の事がもっと好きになっちゃった」
何の感情もこもっていないような平坦な声なのに、困ったように眉を下げるその笑顔に反応してぎゅっと顔が縮こまるような感覚がして、赤面している事に気付く。俺は素早く目を伏せて「分かんないとか言いながら、恥ずかしい事口にしてんじゃんか」と突っ込んだ。
「塁とはまだ、二回しかセックスしてないんだね」
前回のように事後に即寝しないで済んだ俺は、曽根ちゃんに腕枕をして布団から天井を見上げて訊いた。
「少ない?」
「違うよ。何か、凄く前から付き合ってるような気がするから。別に少ないとは言ってない」
彼女の言葉の意図が掴めず、俺は「何じゃそりゃ」と零す。
「あの日、充と塁が対峙した日、塁は私に愛されるように努力してるって、言ってたよね」
「よく覚えてんなぁ。結構頭いいの? 曽根ちゃんって」
別によくないし、と口を尖らせているのが声で判る。
「私だって努力してんの。塁に愛されるために。でさ、恋が愛に変わるのって、いつなの」
それは返答に困る質問だった。恋が愛に変わる時。愛されるように努力しているとは言ったものの、いざ「愛される」瞬間の事なんて、考えた事もなかった。
身体が繋がった時だったとしたら、曽根ちゃんは過去に十五人を愛した事になる。それはちょっと違うだろう。例えば智樹と矢部君は、いつから「愛」を意識するようになったんだろう。相手を「好きだ」という気持ちが「愛している」に変わった切欠は、何だったんだろう。「愛」という物が、とてつもなく気が遠くなる程の距離にあるように思えてきて、焦燥感が募る。
「お互いが、せーので、愛してるって言えた時じゃない?」
自分で言いながら最後、笑ってしまった。馬鹿げている。本当に馬鹿げた答えだ。隣で曽根ちゃんは身体を振るわせている。少し顔を横に向けると、そこには曽根ちゃんの笑顔があった。
今の笑顔で少し分かった気がする。失いたくない。そう思った時点で、恋が愛に変わるんじゃないか。生涯かけて守りたい、そう思った時。そうだ、久野夫妻が教会で誓いをたてていた。死が二人を分つまで。どちらかが死ぬまでは離れたくない。離れない。そうやって、他人に誓えるようになったら、愛なのかも知れない。
「せーので、お腹空いた、とか言わせないように、せいぜい頑張ります」
俺の言葉にまた彼女は、ケラケラと笑った。その笑顔は本物で、その瞳は温度があって、暗い部屋の中でも輝いていて、失いたくなかった。