感動
これを嫌がる人も居りまして「ブラボー」では無く「ブラヴォー」だとか女性に対しては「ブラボー」ではなく「ブラヴァー」だとか、そもそも声を掛けるタイミングが早いとか。曲の間で拍手をするものでない、白けるではないかともおっしゃる人もいる。そんなこと言われてまでクラシックのコンサートに行きたくも無い、だからクラシックは嫌だというのも分かる気がする。
人は自分の恥は知られたくないものだが、コンサートでの失態を一つ披露しよう。自分の事だから誰に叱られることもあるまい。
それはウィーンフィルのメンバーが演奏するコンサートに行った時の事だ。伊達や酔狂でウィーンフィルと言われるわけでなく、その演奏はそれはすばらしいものだった。一緒に行った嫁さんもうっとりと聞き「音楽って数じゃないね、それにいいものね」と言ったほどで、今も嫁さんの口からその時の感動を聞くほどの演奏会だった。
その夜のプログラムに「椿姫ファンタジー」があり、ウィーンフィル主席クラリネット奏者のErnst Ottensamerが演奏した。その演奏は歌詞もいらなければ言葉も要らず、しかし心に深くしみこみ、これが音楽というものだと関心されられるものだった。
様々な人が歌うこの有名なオペラのアリアを、涙を流して聴けるのはそうあるわけではない。歌にならない歌であったり時には元気に死んでいくヴィオレッタも居るほどだが、彼の演奏するアリアは女性の心象表現がすばらしく表現できていて聞いていると自然に涙がポタポタと落ちてきた。
ピアニッシモになり曲が終わったと思った私は思わず歓喜の声を上げた。それはたまらなくなり思わず出たというものだ。演奏者はにこっと笑って演奏を続け私は赤面して曲を最後まで聞いた。その感情があるものだからテレビドラマや映画で演じる俳優を見ても芝居が下手だなと感じてしまう、あの間はないよなと。
今思い出しても恥ずかしいのだが、同時に心から素晴しいと思え涙を流すことの出来る演奏にめぐり合うことはない。
どのタイミングで・・・などというのは今でも陳腐だと思う。本当に感動したらどこここ無く涙は流れるし思わず声が出る。勿論演奏の邪魔になるのは失礼だが、これだけ間を空けて拍手をしなさいというのは、真の感動を知らないものではないかとさえ思ってしまう。
もう一度心のそこから「ブラヴォー!!」と叫べる演奏、聴いてみたいものである。