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好きなにおい

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好きなにおい




 鎌倉の寺の境内で識り合った或る若い女性に油絵を、私は教えていた。十人程度の生徒のうちの一人が彼女だった。彼女は何度も私を呼び、ここはどの絵の具を使えば良いかなどと質問した。彼女の香水がたまらなくいい香りだった。
後日尋いてみるとフランス製のもので、知り合いからお土産としてもらったのだと、云っていたような気がする。ほら、これよ。と、云って彼女は私の手首の内側に、ガラスの壜に入っていたその無色透明な液体をつけた。
 正直なところ、私は彼女に惚れていた。眼が大きくてやや小柄だったような気がする。体型はスレンダーだった。出身は北海道。仕事は栄養士だと云っていた。東長崎で働いているのだと云う。東京にそんな地名があることを、私は初めて知った。
梅屋敷のアパートにひとり暮らしということだった。その住まいの近くの喫茶店で、夕方六時に待ち合わせ、午前零時半までふたりで話をした。その頃読んでいた本の話が主だった。午前一時に近い時刻だったかも知れない。気がついたらそんな時刻だった。梅屋敷の駅で見送られたとき、私は最終電車が入って来るのを哀しい気持ちで見ていた。
 気持ちを告白する代わりに、私は彼女に油絵をプレゼントした。私が描いたものである。
 彼女は北海道へ帰ったのだろうか。手首に彼女の香りが何日も宿っていた。逢えなくなっても、それはほのかに香り続けた。
 彼女の手首を掴んで鎌倉を歩いた記憶もある。夢ではなく、それは現実のことだった。それは鎌倉で彼女と二度目に遭ったときのことだ。銭洗弁天の近くで彼女は足をくじいたのだった。そのときは、男女数名づつで行動していた。私は負傷した彼女の杖代わりになった。本当は抱きかかえて歩くべきだったが、同行者が何人もいたから、顰蹙の対象とならないように、手首を掴むという形をとった。
 あのとき、例の香水の香りがしたかどうか、思い出すことはできない。
 もう一つ蛇足。彼女が夕方の品川の駅で泣いたことがあった。大きな眼から大量の涙を、彼女は溢れさせた。私はそのときも多数の非難の視線を浴びた。形としては混雑する駅のホームで私が別れ話を突きつけ、そのせいで彼女が泣いたと、目撃者たちは思ったことだろう。だが、私は彼女がなぜ泣いたのかは、今も知らないのである。

             了
作品名:好きなにおい 作家名:マナーモード