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無賃羽虫

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 バスが到着した。
 停留所の隣にある駅に人影は無い。駅員の姿もなく 、代わりに閑古鳥が住みついて見えない相手に切符を切っているのかも知れない。
 地元バス会社の経営が危ういと騒がれたのは何年前だったか。通勤の足が無くなる、スーパーに行くのも大変だわ、通学するにはどうすれば。巷がバスの危うさを騒いでいる間に、史跡しか観光資源の無いこの片田舎では、都市から観光客を運んでいた私鉄線が経営から退くことを突然宣言してしまった。
 バスを利用する客は増えたのだろうか。
 それは兎も角、お昼を過ぎてお菓子を食べる時間に、バスには四人の客が乗っていた。
 客の一人である学生は、自分の整理券と料金表をひっきり無しに見比べていた。老夫婦は窓から見える景色を指さしては笑みを交わしている。もう一人の客は、険しい表情と鋭い目で窓をにらみつけている男だった。
 男の服装はみすぼらしかった。毛がほつれて渦巻いている上着に黄色くなったワイシャツ。裾が破れたスラックス。バス内に視線を戻した老夫婦が、笑顔を真顔に変えるボロだった。
 アナウンスの声が聞こえて来た。
『みんなの歯をピカピカのプラチナのような白さに。海野歯科医前、海野歯科医前です。 』
 ピンポン、と男がボタンを押した。老夫婦も腰を上げ、学生も慌ててそれに続いた。
 支払機の前まで来た時、男は視線を窓の外に向けたまま降りようとした。運転手は慌てて引きとめた。
「お客さん、代金払い忘れていますよ」
 男が立ち止まる。後ろの老夫婦が小銭を手にしたままつんのめった。学生は一番後ろで、露骨に不機嫌な視線を男に向けていた。
「それは違うな。お前は受け取り損ねたのだ」
 男は悪びれることなく言った。
「……は?」
 車掌は二の句がつげなかった。老夫婦は目を白黒させた。学生はケイタイを取り出した。
 バキューン
 男はケイタイの撮影音を気にすることなく続けた。
「さっきの客から、お前はお金を受け取らなかった。それはつまり、払う気の無い客からは受け取らないという、お前の経営方針なのではないか? 私はそう推論した。だのに私には払い忘れだと言う。全く失礼な奴だ」
 運転手は男の話を聞き流した。
「あんた、性質の悪い無賃乗車だな」
 男は憤慨した。
「名誉棄損で訴えるぞ。インターネットで客を罵倒するバス会社と書いてもいいんだぞ?」
 老夫婦は顔を伏せながら、支払い機に代金をいそいそと支払っていた。運転手はお礼と謝辞を言ってから、男に視線を戻した。
 学生は今度はメールを打っていた。
「お客さん、連絡先は? 住所は? いつまでもごねていると警察を呼ばなくてはならないんですが……」
「頭の悪い奴だな。私が払う時は、先に降ろした客から代金を受け取った時だ」
「あんたより先に降りた客なんていませんよ」
「いいや、いた。お前の目が節穴なんだ」
「あぁ、もう、いい加減にしてくれ。こっちは予定が詰まってるんだ」
「詰まらせたのはお前だ。俺には何の責任も無い」
 あのぉ、と遠慮がちな声が聞こえた。目尻を下げた学生が、口の端に笑みを浮かべていた。
「先に降りたのは誰なんですか」
 運転手が舌打ちをした。男は学生に向かって吐き捨てた。
「お前のような若人も節穴か。俺よりさきに降りた奴の名前なんか知るもんか」
 学生は笑い続けながら尋ねた。
「不勉強なもので。教えて下さいませんか」
 はっ、と男は笑った。
「見どころのある奴だな。特別に教えてやろう。おい、運転手お前も聞け」
 運転手は無線で本社とやり取りをしながらうなずいた。学生はメモ帳とシャーペンを取り出していた。
 男は満面の笑みで答えた。
「羽虫だ」
 運転手は歯を食いしばった。学生はヒャフと笑い声をあげた。
 運転手は疲れたような声で言った。
「お客さん、あのね、お金を発明して使っているのはね、人間なの。羽虫は違うでしょ。羽虫はお金を使わないでしょう?」
 男は異星人を見るような目を運転手に向けた。
「おかしなことを言う奴だな。世の中に流通しているのは労働だ。お前だってバスを運転することで金を、ひいては生活を得ているのだろう。人間以外の生き物だってそうだ。ツバメは羽虫を狩ることで家の屋根を借りている。牛や豚や鳥は己の身を捧げることで子孫を増やす対価を得る。家の中にいるクモだって、ゴキブリやハエをとらえることで一定の保護を受けているのだ」
 男が更に続けようとした時、学生が口を挟んだ。
「その理論で言うと、おじさんは乗車した分を支払わなくちゃいけないのでは?」
 男は鼻を鳴らした。
「それは、もう既に支払ったぞ」
 運転手が支払い機を見つめる。しかし代金は投入されていない。
 男は悲しそうに首を振った。
「哀れなハイキン主義者の末路的発想だな。私はお前に、この新しい物の見方という知識を乗車の分だけ支払っているではないか」
 学生は、カハッ、とのどをつまらせて身をよじった。ヒーヒーという荒い息遣いが聞こえる。
 バスの運転手はため息交じりに答えた。
「お客さん、残念ながら、バスの運賃は私にではなくバス会社に支払われとるんです。払う相手を間違えていますよ」
 途端、男は顔を真っ赤にした。
「何ぃ、えぇい、この泥棒め。俺の知識を返せ」
「そんな無茶な」
 男が運転手に掴みかかろうとする。すると、そこに小銭を持った学生の手が割って入った。
「遅れちゃうんで、僕がこの人の分を支払いますよ。それでいいでしょ?」
 男は戸惑った目を学生に向ける。運転手は、もうたくさんだ、と言って学生から一人分の代金を受け取って、自分のサイフからもう一人分の代金を支払い機に突っこんだ。
「もう降りてください。こっちは忙しいんだ」
 男と学生は追い出されるようにバスを降りる。学生は、ありがとうございました、と含み笑いをしながら男に別れを告げた。
 苦々しく男は空を見あげる。その時、男の耳元で一匹の羽虫が羽を震わせた。男はその時、確かに羽虫の声が聞こえた。
「時々、あんたみたいに妙に鋭い人間がいるから困るんだよな」
 男は視線だけ羽虫に向けて呟いた。
「お前らにはきちんと年貢をおさめさせてやるからな。私はミミズにだって、ナナホシテントウムシにだって、ツバメにだってクモにだってミツバチにだって妥協したことは無いんだからな」
 はははっ、と羽虫の声が男には聞こえる。
「俺は羽虫だぜ? 取るに足らない存在さ。無賃くらいは無視してくれよ」
 男は頭を振って、その羽虫を追いやった。
作品名:無賃羽虫 作家名:小豆龍