ロストライフ
インスタントのカフェオレに砂糖を二杯足して飲む。甘い、カフェインが浸みる。家族はまだ寝ている。私は昨日も一昨日も来ていた白シャツをはおり、ボタンを留めた。三日着たくらいじゃ誰も気付かない。友達はそんなところまで見ない。においを嗅ぐ人はいない。もう誰も抱きしめてはくれない。鞄の中は空っぽで、私の中も空っぽ。思い出だけが溢れだして、どうしようもない。
今の私を誰も知らない世界に生きてみたい。新しい恋がしたい。もう誰かに謝りたくない、自分の心にも。人の疎らな駅、下りのホームには誰もいない。初めてあんなに他人に触れた。新しく誰かと恋をするとして、またひとつひとつ関係を積み重ねてゆけるだろうか?そんなの記憶がパンクしてしまう。だって十年来の女友達だって舐めたことはないから、やっぱり二年付き合っただけのユウの方がよく知っている。首筋の味。ああまた泣きそうだ、いつ泣いても良いように前髪を伸ばそうか。
ベンチに手をつくと硬い感触。一瞬ひるみ慌てて手を上げると、ピンクゴールドが光る。指輪。誰かの誓いを一身に受けて輝いていたはずのもの。綺麗だな、と思った。拾い上げると少し傷があり、ねじられたデザインの溝は汚れている。それでも五つ並んだ石は、ただの石とは違う。これが宝石。私はその指輪を左手の薬指に嵌めた。ひっかかりもなく、ぴたりと嵌まるそれは、駅の青白い蛍光灯のもとでもひときわ輝く。指をぴんと伸ばし揃え、華やぐ自分の手を見詰めると、少しだけ胸の痛みが和らいだ気がした。
瞬間、けたたましく駅のベルが鳴る。通過電車。現実に引き戻される、急いで指輪を外そうとしても抜けない。着けるときは何のひっかかりもなかったように感じたのに、第二関節の皮膚が邪魔をして指輪は抜ける気配を見せない。無理やり引っ張ると指が赤く腫れる。力任せでは通じない、トイレに行って石鹸を付けてみるしかないかもしれない。きっと誰かの落し物、誰かの大切なもの、消防署に行けば指輪は切ってもらえると聞いたことがあるがそうしたらこの指輪の持ち主はどうなってしまうのだろう。泣くだろうか、怒るだろうか?焦りは焦りを呼び、薬指には爪の痕がいくつもついた。うまくいかない、私の人生は。
「すみません、それ」
朱いラインの電車が通過してゆく、音にかき消されそうな声。指輪外しにやっきになっていた私は目の前のサラリーマンに気付かない。
「その指輪、見せてもらえませんか」
指輪。その単語にようやく気付く、私が顔を上げるともうとっくに電車は通り過ぎた後。
「あ、これごめんなさい私、ここにあって、つい、その、悪気はなくて」
心臓の痛みは増していた。
「いえ探していたんです、それ。見つけてくれてありがとう」
予想だにしていなかった、ありがとう。そこで私は初めて彼の顔を見た。織柄のストライプの入ったスーツ。シンプルな黒縁眼鏡。まだ若く、どこか寂しそう。彼は私の左手に手を添え、赤くなった指をさすった。
「力任せじゃ駄目ですよ。力を抜いて…下から指輪を押すようにしてね」
あっさりと、ピンクゴールドは指から離れた。
「この前これをなくしてね、ずっと探していたんですよ。どこにあったんですか?」
離れないで。離さないで。あの指輪は私みたいだ。全部、全部、私みたいだ。力任せ。外したかったのに、外れた途端、寂しいなんて。私がユウに別れようって言ったのに、別れたくて別れたくてしょうがなかったはずなのに、泣きついてきていた彼が私を諦めた瞬間、こんなに苦しくなるなんて。難しいことじゃなかったはずなのに。指輪はもう二度と嵌められない。外れなかったから、消防署で捩じり切ってしまったから。もうただの金属の塊。
「……痛かった?」
涙が止まらなかった。濃緑のスカートに染みてゆく空知らぬ雨。
「痛くなかった。私は痛くなかった。でも、私どうして、指輪の外し方、知らなくて、ユウを傷付けてしまった。もう戻れない」
サラリーマンは隣に座って、頭を撫でてくれた。今日で三日目の白シャツを思い出す。
「友達を傷付けてしまった?」
私は頷く。
「それは、悲しいね。でも悲しみで世界は終わったりしないから、これからも、生きて行かないとね」
何も装飾のなくなった薬指。少しだけ赤い。世界はずっと繋がっていた?
「僕もね、別れたんだ、彼女と。ここで、指輪を投げつけられた。線路に落ちていたらもう見付からないと思っていたんだけど、見付かって良かった。別に忘れる気はないんだ。つらいけど。つらいからって思い出を蔑にしなくて良いんだよ」
ただの言葉。空気の疎密。それらが、熱くなった体の中を冷やしてゆく。今までの私と、これからの私がようやく繋がった気がした。ユウがいてもいなくても、私は私でいなければ、いけない。
「ありがとう」
「こちらこそ」
快晴。毎日確認する、ユウはもういない。でも、私はずっと、私でいる。