ありがとう
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平日の午後十一時前だった。雑踏が、乗務員の松本朔太郎の視野の大半を占めていた。歩行者が多いので、のろのろと進行するしかなかった。
「何やってんだ。急いでるんだ。クラクションを鳴らせよ」
「歩行者には鳴らさない主義です」
「何ほざいてんだよ。そんなこと云ってると、金払わねえぞ」
中目黒から乗車した中年の乗客は、松本のシートの背もたれを蹴った。恐怖を感じながらも、乗務員は酔っている乗客の要望を無視した。
漸く自由が丘の駅前でやくざっぽい乗客が下りるとすぐ、切羽詰まった顔の若い男が乗り込んで来た。こちらも少し酔っているようだったが、如何にも真面目そうなサラリーマンという印象だった。
「ありがとうございます。シートベルトをお願いします」
「目黒の店に財布を忘れてきたから、一文無しなんですよ。行ってもらえますか?」
「自由が丘から目黒だと、二千円ちょっとですが……」
「昨日が給料日なので財布には或る程度入っています。だから大丈夫です。ただ、目黒から、そのあと東雪谷の病院へ急いで行ってもらいたいんです。一刻を争う用事なんです」
松本は乗客が嘘を云っているとは思わなかった。
「そういうことなら先に病院へ行きます。ここから荏原病院だったらすぐ近くですよ。そのあとで目黒まで行きましょうか」
「そうです。その、荏原病院なんですよ、いいんですか?それで……」
「困った時はお互い様です」
「済みません。ありがとうございます」
駅前にはタクシーが二重の輪を作っていた。ここの歩行者の数も凄い。自由通りに入ると奥沢の駅前の踏切を通過し、間もなく左折してひどく暗い道を中原街道へ向かう。雪谷大塚から中原街道で大岡山駅入り口T字路を右折して人通りの絶えた登りの道へ。
間もなく黒々とした木立が見えてきた。そこが荏原病院だった。乗客は走って病院内に入って行った。敷地内では三台の空車タクシーが待機していた。
十分程で若い男は松本の車に戻った。
「母が危篤だと云うので焦りましたが、意識は戻っていました。ありがとうございました」
松本はドアを閉めて車を発進させた。
「持ち直したんですね?良かったじゃないですか」
緩やかな下りを走り、交通量の多い中原街道に戻って右折した。登りの道を行くと左手に大きな池がある。洗足池だ。更に環七を超えて一キロ半で平塚橋。そこから暗い旧道を行く。殆どほかの車と出会わない交差点に「止まれ」の標識がある。松本はそこで一時停止した。後続の車から過去に何度もクラクションを鳴らされた場所だ。そんなところこそ事故になる危険性は最も高い。無灯火の自転車が突っ込んで来ることもある。
タクシープールに二十台に近いタクシーが集合している。その前の目黒駅交番の近くで待っていると、あの若い男が笑顔で戻って来た。
「済みません。料金は幾らですか?」
「七百十円です」
「えっ?そんな……」
「メーター倒すの忘れてました」
「そうなんですかぁ?じゃあ、これだけ取っておいてください」
五千円紙幣だった。松本は釣りとして四千三百円を渡した。
「メーターに表示された金額以上を受け取ると、へたすると失業者になってしまうんですよ」
近くの店で友人が待っているのか、若い男は軽い足取りで去った。松本はタクシープールに並んだ。二十分で新たな乗客を迎えた。
「カードは使えるんですか?」
長身の若い男である。
「はい。大丈夫です」
「神奈川県の茅ヶ崎まで、お願いします」
「茅ヶ崎は五年振りですよ。ありがとうございます」
箱根駅伝のコースを想い浮かべ、松本は思わず笑顔になった。五年前は二万円以上の料金だった。
二日前の深夜には中央高速で東京サマーランドの近くまで行き、その二日前も同じく八王子まで行った。年末になるとこういうことがある。八割がワンメーターだった夏のあの不景気が嘘のようだった。
了