時は動き出した
もう一度薬缶にお湯を沸かし、たっぷりめに紅茶を淹れた。湯気の立つマグカップをテーブルに運ぶと「サンキュー」と言って真吾は両手でカップを持った。
私がテーブルにつくと、「俺さぁ」と口を開いた。
「告白されたって、言ったでしょ。後輩の女の子に」
聞きたくないような、聞きたいような、そんな気分で、「はぁ」と微妙な返事をしてしまった。
「断ろうと思ってるんだ」
「え、何で? 奥さんの事も分かってて告白してきてるんだったら、いいんじゃないの?」
真吾は首を左右に傾げた。
「俺、好きな人いるから」
一瞬、身体の芯がぐらりと揺らいだが、何とか耐えた。
「何だ、じゃぁそう言って断ればいい」
ひしゃげた笑顔でそう言うと、真吾は顔を崩さないまま、黙っている。
「何か、変な事言った?私」
薄々感づいていた。彼は私に言った。諦められない、と。私も同じことを言った。
「本当は、分かってるんだろ?」
俯いたままぼそっと、真吾は言った。私は目線を泳がせた。「何が?」
自分の感情にまっすぐに生きられる人間を私は、羨ましく思う。
「俺は恵の事を諦められない。恵だってそうだって、言ったよな?」
私はそんな風に生きられない。自分を押し通せない。
「勝手に消えたと思ったら、ふらりと現れて、諦められないだなんて言われたって、困るよ。離婚だってまだ成立してないんだし」
下を向いていた真吾が顔を上げ、私を見た。
「離婚が成立したら? そしたら俺の方を向いてくれるの? そういう事?」
少し攻撃的な物言いが癇に障った。
「自分からいなくなっておいて何なの! 私の中ではあの雪の日のまま、二人の時は止まってるの。幼馴染のまま、時が止まってるの」
今更一緒になんてなれない。なりたいのは山々。だけどなれない。幼馴染は「幼馴染」でしかないんだから。
真吾は肩にかけていたカーディガンを私の肩に被せた。彼のぬくもりが加わった。
「恵の匂いがした」
そう言うと自分の黒いダウンジャケットに袖を通し、玄関を出て行った。