時は動き出した
ふーん、と言いながらカップの底の方に残っているコーヒーをぐっと飲み干し、私に双眸を向けた。至極真面目な顔つきをしている。
「なぁ、俺んち、来ない?」
「は?!」
素っ頓狂な声を上げるわたしに、周囲の冷たい視線が突き刺さる。
「別に何もしないよ。嫁の仏壇があるからそんな気も起きないし。ビジネスホテルに泊まるよりは金もかからないし、いっぱい話もできるしさ」
私は既婚者だ。いくら幼馴染だといったって、過去に一線は越えている二人だ。これは断るべきだと思い「有難いけどそれは無理」と視線を合わせずに伝えた。
「どうして?」
「だって既婚者だよ? 私」
胸の奥底では、彼の家に行って、一晩中彼と昔話をしていたいと願っているのに、「既婚」という縛りが人としての常識を持ち出し、ガードをする。
「オールナイトでカラオケやってると思えば、気持ちも軽いでしょ? ボーリングでもいいや」
真面目だったはずの彼の顔はもう既に無邪気な笑顔に変わっていて、私が最終的には必ず首を縦に振ることが分かっているのだろうと、私は苦笑しかできなかった。
「今時ボーリングでオールナイトなんてやらないよ」
私は席を立とうとしたが、スマートフォンを持つ腕を掴まれた。
「俺は、一緒にいたいんだ。今日だけでいい。絶対何もしない。お前が傷ついてるのを見過ごしたくないんだ」
彼は一度も目を離さず捲し立て、私も目を離す事が出来ず、瞳が左右に揺れた。一瞬、カフェ内のBGMが途切れたような気がした。
「あの、あ、分かった。うん。じゃぁ、今日だけ」
そう言うと、子供みたいに「良かった」と笑顔を見せると、飲み干したドリンクカップが載ったトレイを返却スペースへ置きに行った。
お互い愛が消えうせた夫婦で夜を過ごすのと、お互い思いが残ったままの幼馴染と夜を過ごすのでは、どう考えたって後者が魅力的に決まっている。
それが一般常識から少し外れた行動だとしても、だ。