ホワイトクリスマス
ホワイトクリスマス
そこはK電気の工場のひとつだった。定時後に笠松健が広大な敷地の一角にある美術部の部室で一人で石膏デッサンをしていると、そこに寮生で部員の北村翔子が石膏デッサンに必要なパンを持って入ってきた。彼女が持ってきてくれたものを、礼を云って受け取りながら、笠松は自分が毎日そこにいることを、彼女は知っていたのだろうかと思いながら訊いた。
「お昼に樫村さんが北村さんを探していたこと、知ってた?」
彼女に去年から恋をしている笠松は、胸をときめかせていた。それと同時に、暗い気持ちにもなっていた。翔子が美術部の部長の樫村と交際しているらしいという噂を、数時間前に初めて知ったからだった。
樫村は二十九歳で、二十二歳で工員の笠松から見ると随分落ち着いていて、如何にも頼りがいのある男という雰囲気だった。真夏に樫村の油絵の個展を駅前の画廊に見に行ったとき、翔子が先に来ていたことも、笠松は思い出した。
翔子は笠松と同じ年齢だが、印象としては幾つか歳下という感じがした。彼女の仕草や表情には、まだ少女っぽいところが非常に多いのだ。
「そうらしいのよ。それでここに来てみたの」
「あの人は忙しい人だからね、滅多にここには来ないよ」
翔子は三千人の女子工員のなかでは最も魅力的な娘だと、笠松は当然思っていたが、その理由は彼女の描く油絵が素晴らしいからでもあった。彼女の描く花の絵は、どこの展覧会や画廊でも、見たことのない叙情性に包まれていた。それは、笠松が翔子に惹かれているからだとも考えられるのだが、彼女の描く絵のファンは工場内では珍しくなかった。
「そうよね……わたしね、実は樫村さんが好きなんだけど、彼の気持ちがわからないの。今度訊いてみてくれない?仲いいんでしょ」
ショックだった。笠松の想いに、翔子は全く気付いていないのだった。
「でも、付き合ってるんじゃないの?」
「あのひとはねぇ、出世コースを突っ走ってる人でしょ。女子工員にのぼせてるみたいに云われると困るのよ。この前一緒に車に乗せてもらったのは、私の高校時代の友達があのひとの家の近くに住んでたからなの。その一回だけで会社の中で噂になるんだもの、困ったような、嬉しいような、複雑な気持ちなのよね」
「そう?一回だけ車に乗せてもらっただけなんだ」
「なぁに?随分嬉しそうね。そうだ!クリスマスイブは笠松さんの車に乗せてくれる?」
「来週の土曜日だね。その日のデートはキャンセルしよう」
「えっ!いいの?」
翔子が笠松のことばに拘泥らなかったことに、笠松は落胆した。デートの話は勿論嘘だった。
「美術部のマドンナのためならば、何でもするからさ」
「ありがとう。じゃあ、お願いね」
そう云うと、彼女は行ってしまった。笠松は翔子を自分の車に乗せることができると思うと、それだけで充分に嬉しかった。しかし、彼はその晩やけ酒を飲んだ。
クリスマスイブの夕方になった。広い駐車場にはいつもよりおしゃれをした女子工員の姿が目立っていた。郊外の工場から、ターミナル駅の近くのイベントホールへ行くには、電車やバスよりは車の方が便利だった。そこでは今夜、親睦会の主催するクリスマスダンスパーティーが開催される。大した道のりではなかったが、翔子とふたりでの短いドライブは笠松のテンションを上げた。
「翔子ちゃん!きれいだよ。ミスK電気を乗せられるなんて、光栄だなぁ」
笠松は車の中から翔子に声をかけた。三号館の近くまで迎えに行こうとしていたのだった。
「おや?笠松さんの相手の子は?」
「えっ!ああ、今日は風邪で寝込んでるんだ」
それは勿論出任せだった。
「じゃあ、看病に行かないとダメじゃない。あっ!樫村さんだわ。こんばんは。樫村さんの車に乗せてもらえませんか?」
「先に乗ってるひともいるし、ついでだからどうぞ!」
長身の樫村は新調らしいスーツで決めていた。彼の快活さを感じさせる笑顔が印象的だった
翔子は二十メートル先の樫村の車に乗った。そのとき笠松は車を急発進させ、守衛所の先の道路に向かって車を走らせた。
クリスマスソングが流れる街には多くのイルミネーションが輝き、様々の色彩が溢れていた。パーティーの会場の前を猛スピードで通過した笠松の車は、そのまま山間部につながる道路を走って行った。
やがて、雪が降り始めた。笠松は空腹を感じることもなく、白くなり始めたカーブの多い観光道路を突き進んで行く。明日は雪景色を描いてみよう、と彼は声に出して云った。そして、雪はどんな感情をも覆い隠してくれる筈だと思った。
了