吾輩は化け猫である
生涯無名
「……拝み屋」「葵、や」
拝み屋の女人は吾輩の魔性の気を感じて駆けつけてくれたのである。そのおかげで胎の児が無事に生まれ、母子ともに元気であると知る事が出来たのである。
吾輩は魔性の存在であるが故に、肉体など在って無い様な物なのである。また一から作り直さねばならぬのではあるが、それ自体はそう手間が掛かることではないのである。
「葵、感謝する」
「ウチは何もしてへんやんか」
「いいのである。それでも感謝しているのである」
吾輩は素直に感謝の意を述べたのである。思えば八百四十九年という年月を経た昨今、何やら世捨て人ならぬ世捨て猫の如き生き方で誰とも関わらずに往くのが格好が良いとばかり考えていたのであるが、それも良し、これも良しである事を知った。
吾輩とて生まれた時は愚かだったのである。それを思い出すための試練だったのではなかろうかとさえも思うのである。
「ははーん、わかったで。ウチに何かさせる気やな?」
どうやらこの葵という名の拝み屋の女人は勘が鋭い様である。それでなければ普段から余程酷い目に遭わされて慣れてしまっているのではなかろうか。なんだか可哀想に思えてきたのである。
「二つある」
しかし、慣れているのならば話は早い。一先ず云ってしまえば良いのである。
この女人が善い女人であることに間違いはないのであるから。
「どうやら、ウチに拒否権はないみたいやで」
「一つ、拝み屋の仕事を手伝いたいのである」
我が主人。吾輩はまだ名乗り出る勇気が持てないのである。それはこの先何百年経ったとしても持てない物なのかも知れぬ。されど吾輩は貴女の事を決して忘れぬと誓おう。
「一つ、吾輩も子を生したいのである」
吾輩の分身を、吾輩の移し身を貴女の下へと送らせて欲しいのである。そして願わくば吾輩の名を与え、吾輩の代わりに、吾輩の様に愛して欲しいのである。故に吾輩のこの名前はお返ししようと思うのである。我が子に譲ろうと思うのである。
「フフ、好きにしたらええやんか」
吾輩の頼み事の何が可笑しかったのか、拝み屋は、いや、葵は、吾輩に向けてにっと白い歯を見せて笑ったのである。
悪い気など微塵も起こりはしなかったのであるが、やられっぱなしも癪であるので吾輩も一つ意地悪な頼み事をすることにしたのである。
「もう一つ頼みたいことがある」
「なんやねん?」
「新しい名前を付けて欲しい」
「それは絶対にイヤや」
即答であった。
吾輩はそれが妙に嬉しかったりもしたのである。
「そう云わずに頼む」
「イーヤーやー」
吾輩は化け猫である。名前はまだ無い。
欲をいっても際限がないからこの拝み屋の傍らで生涯無名の猫のまま終るつもりだ。
― 了 ―