新婚不倫
新婚不倫
一年前、途中入社だったおとなしい男に、美しい女は仕事を教えた。どちらもまだ若かった。
硬くなっている男は教えられながら、それと判らないように冗談を云った。
何日目かに、女は吹き出した。
「もう、亀山さんったら、そんな顔して」
「はっ、どんな顔でしょうか」
「だって、凄く真面目な顔で、そういうこと云いそうもない顔して」
「そう云えば、ポーカーフェイス亀山というリングネームを命名されたことがあります」
「なるほど。それは的を射てるわ」
水野ちさとは可愛らしく笑った。
瞬く間に季節は一巡した。先月が五月だった。彼女は連休を挟んで十日ほど会社を休んだ。昼休みにいつもの店で食事中に亀山はそれについてちさとに質問した。
「わたしも、明日からアミに寄って、それから出勤しようかな。いい?」
ちさとは応えずにはぐらかした。
半年前からだろうか。亀山佑は毎朝店の開店時刻の七時に、その「アミ」という名の珈琲店でモーニングセットを注文した。彼は小説の草稿を、ノートにしたためていた。それは、恋愛小説である。彼とちさととの、恋の物語を書こうとしているのだった。
「おはようございます。八時に来るつもりだったのに、二十分遅刻しちゃった」
一番奥の席が、亀山の指定席だった。
「五十分に出れば会社には間に合います」
「そうね。そうだ。きのうのお昼に質問されたわよね。わたしね、連休に結婚したの。旦那と同じ姓だったから、名前が変わらなかったのよ」
亀山はめまいを感じた。そして、視野が暗くなった。その暗さの中で、ちさとはやはり輝いていた。
「新婚旅行ですか」
「旦那のバイクの後ろに乗せられて、高原を走り回ったの。いいお天気だったし、最高だったわ。最初はね……」
「途中から飽きたんですか?そんな筈はありませんね」
「熱よ。風邪ひいたのよ」
「それ、かなりヤバイんじゃないですか?」
「だから、バイクは運送屋に持ち込んで、電車で帰ってきた。最初からバカな夫婦ね」
それ以来、亀山とちさとは毎朝そこでコーヒーを飲むようになった。方向が同じなので、帰りも同じ電車に乗った。夕方のラッシュアワーもすし詰め状態なので、ふたりは身体を密着させることが多かった。やがて、殆ど抱き合うようにして、電車に揺られているようになった。
朝と夕方のデートが数箇月続いた末に、ふたりは離島への旅に出た。ちさとの夫は四日ほど出張でいないということだった。
夜明け前に船が島に着くと、旅館の部屋でこたつに入った。その中でふたりは足を触れ合わせ、互いの感触を愉しみながら話をしていた。それは、互いに一糸まとわぬ姿となり、足だけを触れ合っているような錯覚をもたらした。興奮のためにふたりの声は変化した。
そのまま少し眠ってから、ふたりは島内観光をした。山の上では椿の花が満開だった。翌日には本土への便に乗船しなければならないと、花を眺めながらもふたりはそればかり考えていた。
「首を切られた人みたい。不吉な感じでいやだわ」
椿の花は花弁が個々に散るのではなく、多くは花弁が基部でつながっていて萼を残して丸ごと落ちる。それが首が落ちる様子を連想させるために入院している人間などのお見舞いに持っていくことはタブーとされている。
「あと二十時間以上も一緒にいられるんだから、愉しい時間にしたいな」
「そうよね。せっかくふたりだけになれたんだもの、たのしまなくちゃね」
その夜、ふたりは本当に一糸まとわぬ姿となって結ばれた。亀山にとって、その歓喜の渦は、まるで大海原に翻弄されるような、深くダイナミックなものであった。
翌朝、ふたりは旅館の中の喫茶室でコーヒーを飲んだ。それは、今までよりも多くの複雑な味として感じられた。
「わたしね、会社を辞めたよ」
「……どうして?もう、嫌いになったから?」
「あなたはわたしを幸せにしてくれたわ。本当よ。でも、わたしはもうすぐ母親になるのよ。単純な理由なんだ」
「……でも、本当に幸せだって、思ったんだね?」
「ええ。本当よ。ありがとう。感謝してる」
「俺も、幸せだったよ。男になれたしね」
「……」
そのやり取りのあとで口に含んだコーヒーの味は、それまでとは違って苦味の強いものに変わっていた。亀山はそれをちさとには云わなかった。
船の汽笛が聞こえたような気がした。明日からは、コーヒーを飲む度に今までとは違う感慨に浸ることになるだろうと、亀山は思った。
了