その悲しみのために
この空腹を抑えるにはどうすればよいか。とりあえず、卵かけご飯を一気に二杯胃に流し込んだが、それでも空腹感は消えない。
強い違和感。それは空腹についてだけではない。何かが決定的に違う。でも何が違うのかはさっぱりわからない。
インターホンが鳴った。ドアの覗き穴の先には、見知らぬ女の子が立っていた。黒い長髪に小さな花の髪飾り。白いブラウスの上にピンクのセーターを着込み、赤いスカートを履いている。足元はよく見えなかったが、おそらく茶色のスニーカーのようなものだろう。一見すると高校生くらいの年頃のようであったが、大学生、もしくはそれよりも年上に見えなくもない。まるで全ての女の子の特徴を含んだような、そんな容姿であった。
僕はドアのロックをはずし、彼女に訊ねた。
「いったい僕になんの用だい？ そもそも僕と君は初対面のようだけど」
「そんなにあせらないで。いったい何に追われているの？ 私があなたと面識がないからといって、あなたの部屋のインターホンを鳴らしてはいけない理由にはならないと思うわ。それに、あなたの部屋の前で、あなたの名前が書かれたハンカチを私が拾っただけだとしたら？」
たしかに彼女の言うことには一理ある。実のところ、僕は朝からの違和感のせいで冷静さを欠いていたのだ。
「たしかに君の言うとおりだ。ごめん。それから、ハンカチありがとう」
「わかってくれればいいのよ。あと、ハンカチは単なる例え話であって、私とあなたには何の接点もないわ」
僕は少し驚いて、同時になぜか懐かしい気持ちになった。
「じゃあいったいどんな用なんだい？」
「特に用はないわ。なんとなくよ」
僕はなんだか、ひどく彼女のことが気に入って、彼女を部屋へと招き入れた。
僕たちは近所で買い込んだ安い缶ビールを飲みながら、多くのことを語り合った。それは、世界の誕生や、宇宙の神秘や、僕たちの生い立ちについて。
とりわけ彼女の生い立ちは奇妙なものであった。彼女は、どこの国に属するのかもわからないような太平洋のど真ん中で生まれ、ハワイを経由して日本へとたどり着いたらしい。
多分に酔っていたせいか、僕はこの話をすんなりと信じることができた。それに、細かいことにいちいち突っ掛かってもしょうがない、とも思った。
僕たちはずいぶんと話し込んでいたようで、リビングの大きな窓から夕陽の光が差し込んできた。
その黄金色の輝きは、かつて栄えた王国が崩れ落ちたような哀愁に満ちていた。そしてその輝きは、僕をとても悲しい気分にさせた。世界中の人々がいつの間にか消えていて、それでも僕だけはいつものように目を覚ます、そんな悲しみだった。
僕は泣いていた。それにつられてか、彼女も涙を流した。その時、こんなに楽しかった彼女との関係も今日限りのものであると直感した。世界のために、そして僕のために泣いてくれる、それだけで充分だった。
彼女が「そろそろ帰るわ」と言って立ち上がった。
「どこに帰るんだ？」と僕は訊いた。
「帰るべきところよ。誰にでも帰るところがあるわ。それがどこかはまだわからないけれど。でもいつか必ず見つかる。見つけることができるの。それって、すごく素敵なことだと思わない？」
彼女は僕に軽いキスをして部屋を去っていった。彼女は笑っていた。その微笑みは、この世の全ての不幸を抱え込んだような、そんな優しさに満ちていた。
僕はまたビールが飲みたくなって、あまり冷えていない缶ビールを一気に空にした。
僕は彼女と別れるとき、どんな顔をしていただろうか。彼女と同じように笑っていたのだろうか。それとも、また泣きそうになっていたのだろうか。
夕陽はビルとビルの合間に沈み、窓の外は深い夜に包まれていた。
明日の朝もまた彼女に会える、そんな気がした。今朝覚えた違和感は、すっかり消えていた。