ハピネス
その金縛りを言い表すなら、黒く巨大な塊、マリにはそれが黒い雪のように思える。横たわったマリの頭の先からつま先まで、覆い尽くす黒い雪。
でも、それはあくまでイメージであって、実際は色も形もなにもない。体が硬直して動かない、ただそれだけだ。
固まった体の感覚は現実のものなのに、意識は夢に包まれていて、マリは自分がどちらにいるのか混乱する。体と意識を一致させたくて、安心したくて、抜け出したくて、何とかして目を開けようとするけれど、瞼をわずかに震わせることもできない。頑丈に釘打たれた果物の木箱のように、睫毛がぴったりくっついている。その開かない目の中で、黒い雪を見続ける。
観念してそのままやり過ごせば、やがて消えて済むのはいつものこと。そう分かっているのだけど、足掻かないではいられない。両手を伸ばし、黒い雪を押しのけようとする。けれど、伸ばしたはずの両手は、身体の脇にひっついたままで、ぴりっと痺れるような現実の身体感覚を、遠い意識の先で感じる。
「マリ、おい、マリ」
哲夫に肩を揺さぶられた拍子だった、瞼の留め具が壊れたみたいに、ぱちりと目が開いた。
「大丈夫か」
哲夫がマリの目を覗き込む。首を縦に振ったつもりが、体はびくとも動かない。目だけが自由になるのは初めてのことだった。マリはそれを試すように、ぐるりと眼球を一回転させてみる。見える。哲夫の顔も、部屋の薄暗さの加減も。
マリは精一杯、目を左右の端から端まで振ってみる。どこもかしこも豆電球の影を映している。タンス、机、椅子、カーテン、ギター、黒い影を伸ばせるだけ伸ばして、小さな部屋を侵食している。
「怖いよ、マリ。冗談だろ。大丈夫かよ、ほんと。早く元に戻ってくれよ」
「てつお」
絞り出すように、やっと言葉にすることができる。痺れが薄れていき、体の自由がじわじわ戻っていくのが分かる。全身から悪い血が抜けていくようだ。瞼から手が除けられて、視界を取り戻すと、心配そうな哲夫の顔が見える。
「うなされてたよ、ひどく。なあ、金縛りって言うけどさ、何で目だけが動くわけ? いや、俺とかはなったことないから分らないけれど、そういうのって夢うつつ状態で陥るものじゃないの? 意識がはっきり起きているのに金縛りって、ちょっと聞いたことないし。まあ、ほらさ、あれだよな、ホラー映画だったら、見たくもないものを見ちゃうキャラだよな。目を閉じときゃいいのにさ、開けたばっかりに怖い奴に出会って、頭からばりばり食われてんの」
「真っ先に殺されちゃうドジな役なんでしょ」
「そう、それ!」
哲夫はマリの腰に抱きつき、体を揺すって笑う。抑えていた衝動も加わって、哲夫の笑い声は大きく聞こえる。マリは哲夫の腕に手を触れながら、一緒に揺れる身体を感じる。そして、確かに今は哲夫と一緒にいる、そう思う。
「俺さあ、いや、俺の友達でさあ、山崎ってやつ覚えてるだろ? その山崎が脳の異常? ってやつに夜中に突然なってしまって、その時彼女と一緒に寝ていたんだけど、いきなり訳の分かんないことを捲くし立てるんだ。すごく早口で真剣に意味不明なことを言い連ねてさ。立って部屋中を歩き回ったりして、でも足元が変で何度もすっ転んで。それで彼女が怖くなって病院に行こうって言うと、山崎はまた早口で捲くし立てるばっかりで、絶対行かないってきかないの。困った彼女は俺の携帯に電話してきて、どうしようって泣いたんだ。俺はすぐに救急車を呼べって言ったんだけど、結局、脳梗塞か、脳出血か、脳何とかだったらしい。今はぴんぴんしてるけど、あのとき彼女がいなくて一人で寝てたら、多分助からなかっただろうって病院で言われてさ」
マリは喉の渇きを覚え、哲夫の飲みかけのコーラに手を伸ばす。
「俺、今ならあのときの彼女の怖さが良く分かるよ。こんな夜中にひとり取り残されてさ。マリは何だかイっちゃってたし」
哲夫は饒舌に話しながら、マリの髪の中に手を入れる。マリの、ぎりぎりまで短い髪の、尖った毛先を確かめるように撫でまわす。そしてもう片方の手でマリの身体を抱き、足と足も、隙間なく絡ませる。
マリは身体に巻きつく哲夫の腕に触れ、太もも、ふくらはぎに哲夫の体温を感じる。そして、その肌の温かさを信じようと思う。信じる、この温かさが自分に触れた記憶は失われない、そう思う。
そう信じたい。でもいくら願っても、裏腹な不安が胸の中に広がるだけだった。いつもそうだった、願えば願うほど、信じることができなくなる。口の中に残っていつまでも消えないコーラの甘ったるさが、急にもどかしく感じる。
哲夫はどこまでも呑気だ。子どもが机の下で足をぶらぶらさせているのとたいして変わらない。ぶらぶらさせた足の先がたまたまこつんとマリの足に当たり、ただその面白さを無意識で追うような、哲夫の呑気さ。
哲夫、助けて。そう喉まででかかったマリの粘着質な思いを、哲夫は使い捨てのラップをかけるみたいに、さっさと安易なもので覆ってしまう。哲夫の話は続く。
「例えばさ、というか、実話過ぎて例えでも何でもないんだけど。ひとりでいるときに自分が金縛りにあうか、それとも、ふたりでいるときに相手が金縛りにあうか。どっちが怖いかって言ったら、後の方が怖いと思わない? つまり俺の立場だよ。夜中の部屋の中の暗さったら、逃げ場がないし、自分だけまともなんて怖くて耐えられない。部屋の隅が怖い。窓辺の薄明かりが怖い。冷蔵庫の近くもなんか怖い。夜明けはまだまだやって来ないし、電気を点けたりしたら、それこそ本当に怖いものを証明してしまいそうだし。とりあえずしがみ付くしかないよ、マリに。と言ってもマリも固まってるし。ほんと怖いんだよ、何もかも固まってるなんて。おい、動いてるのはこの俺だけかよって。まじ、恐怖。
いいや、さっきのホラー映画の話。正しい配役をあてると、お前が主人公で、俺が真っ先に食われちゃう役だよ。ああ、そうかそうか、俺も目なんか開けるから悪いんだ。今度また、もし金縛りが来たら、俺たち、ただひらすら朝まで目を瞑っていような。好きだよ、マリ。マリも目なんか開けないで、睨むなんてやめろよな」
「だって、何か見えるような気がしたの」
「何がだよ。そんなこと言い出すから余計怖いんだよ。大体金縛りなんて体の疲れだろ? こむら返りみたいな、ただの全身の硬直だろ。そんなところに意味なんかつけようとするなよ」
「だって」
何か意味があるのかもと思ったんだもの、と続けようとして、マリは口を閉ざす。
マリの母は何にでも意味をつける人だった。毎日の天気、カーテンから漏れる光の差し具合、朝のコップ一杯の水にさえも。凶か吉か、占いごとをしないと先に進めない。だから生きているだけで、ややこしくなる。
同じものを自分も持っているのかもしれない、とマリは思う。知らないうちに、この何気ない日常の中に、母から刷り込まれたものを無意識に紡いでいるのかもしれない。そう考えて、マリは口を閉ざす。哲夫の言うとおり、意味なんてあるはずがないのに。