嫉妬SS 美緒也(侵食)
僕の世界に等しい人が通りの向こうから歩いてくる。しっかりコートは着ているのにマフラーも手袋もしていない。時折首を縮めるような仕草をする。きっと急いで出掛けたせいで防寒具は置いてけぼりをくらったんだろう。
彼女はまだ僕を見ていない。僕ではないものを見て、僕ではないことを考えている。それが悲しくてつい溜息と独り言が漏れる。
すると、彼女は不思議そうな顔で辺りを見回した。僕の声が彼女の耳に届いたのだろうか。今度はそれが少し嬉しくて、けれど独り言の内容を考えるとぞっともした。
「はる」
そう呼びかけると、今度こそ僕にピントを合わせた彼女が「信じられない」といった目をした。
彼女の中に僕が存在を始めた。彼女が僕を認識してくれた。きっと頭の中は驚きと僕のことでいっぱいだ。
僕の嬉しいも悲しいも、はるのせいで簡単に反転することを彼女は知らない。
きっと僕のことを彼女は恐らく理解していない。それでいい。僕が世界である彼女を理解していれば。そう、僕だけが。逆に僕以外に彼女を理解しようだなんて思ってもほしくない。
「……なんでここに」
「おかえり、はる。遅かったね?」
「そうじゃなくて、君、入院」
「君入院している筈じゃ」と言いたかったけれど驚きが勝って絶句してしまった様子のはるに僕は一つだけ頷きを返す。
「うん。まだ入院中だけど、散歩しに来ちゃった」
「なんで……?」
「今日はとっても寒いから、はるが心配で」
「それだけ……」
「それだけ?まさか。はるに何かあったら大変だからね。ほら、寒そう」
そう言いながらはるにマフラーを手渡す。彼女は不思議そうに首を傾げた。
「これ、何?」
「はるにプレゼント」
「え、い」
「いいから貰って?あ、末春君とかには内緒ね」
だって僕は彼に嫌われているから、という言葉は飲み込んでまた彼女に微笑む。はるがまた何か言いたげなのを遮るように「行こうよ」と歩き出す。
「あ、待って、待ってってば」
はるはマフラーを手に持ったまま僕を追いかけてくる。
「はる、マフラーつけて。そうじゃなきゃ帰してあげない」
僕は半ば本気でそう言ったのに彼女はそれを冗談と受け止めたらしい。面白そうに笑った後手早くマフラーを巻きつけた。
本当にどこかに隠してしまおうかと思ったのに、はるには伝わらなかったらしい。でも彼女に風邪を引かれる心配も、とりあえずマフラーに関しては僕以外のものをつける心配もなくなったのでよしとする。
僕の隣には今、僕の世界がいる。僕の全てがいる。僕が恋している人がいる。
チリチリと胸の奥が痛んだ。彼女はそのことを知らない。何も知らずに、顔を赤くしながら僕の隣を歩いている。寒さのせいなのか、それとも別の意味なのか、僕はあえて考えるのをやめた。
「そういえば変な夢を見たの」
「どんな夢?」
そう聞くと、はるは一瞬躊躇うような素振りを見せた後、ボソっと呟いた。
「……君が死ぬ夢」
「あはは、ありそう」
本当に明日起こっても不思議じゃないね、と笑いかける。はるは無表情を崩さずにふう、と溜息をついた。彼女の吐息は白い霧のようになって広がっていく。
「しかも自殺なの」
「へえ」
それこそ明日起こっても不思議じゃないと思った。はるが見た夢は正夢なんじゃないかと疑いたくなるほどにそれは事実に近い。僕ならやりかねない。むしろやってしまいたい。
「でも理由は忘れちゃった」
ああ、多分、はるの記憶に一生残りたいと思ったからだよ、とはだから言わないでおく。はるには秘密だ。
「それはまた変な夢だね。はる、ごめんね?ビックリしたでしょう」
「そりゃまあ。すえに話したらすえも変な顔してた」
「末春君にも話したの?」
「話したよ。起きたらすぐに会ったから」
「いいなあ」
「……何が?」
「ううん、気にしないで」
はるの近くにはいつも弟の彼がいる。仲良しでよく似た顔で、姉思いで、だからこそ僕のことが嫌いな弟。
はるの首に巻かれたマフラーを見たら彼は一体どんな顔をするんだろうかと想像すると、楽しくなった。
「ねえ、どこに行ってるの?こっち、病院じゃない」
「はるの家。道合ってるよね?」
「そうだけど……」
「家に帰るの、嫌?」
「別に、そんなことはないけど」
「ちなみに僕は嫌」
「どうして?」
「はるがとられちゃうでしょう」
「……君って冗談上手だよね」
「僕ははるに本当のことしか言わないよ」
はるが僕の隣にいないことが、本当は身が焦げそうなくらい嫌なのだ。
家に帰ったらはるは僕じゃない人と会話をして僕じゃない人の名前を呼び僕じゃない人のことを考えて僕とは関係ないものに触れる。
はるが僕以外を見るのが許せないのだ、とはる以外の全てをなくしてしまいたい、とただ願うことはそれは異常なことなんだろうか。
恋をするということは嫉妬するということ。それはとっても簡単で誰でも辿り着ける事実だというのに。
僕の心も行動も表情の一つも一回の呼吸も、全てははるを独占するため。
それなのにはるは僕の名前を呼ばない。はるは僕に触れようとしない。はるは、はるはまるで僕に近づくのを恐れるようにする。
こんなにも好きなのに、と心の中で首を傾げる。
いっそ好きと言ってあげればはるの世界は僕になるんだろうか。
でも僕はその言葉を伝える時をもう既に決めているのだ。だからその時までただ一度だって「好き」だとはるには伝えない。
全てははるを独り占めするため。だから今このときも僕のものにならないはるを黙って見つめるだけ。
僕以外にはるに関わる全てのものが許せないし、許せなければ許せなくなるほどはるに対する気持ちが募っていく。
それを伝えるときはいつになるんだろう。
少なくともそれは今ではない。今は違う。
まだこの世の全部に、はるに触れる空気すらも僕のものにしてしまいたいと、はるの目を僕の手で覆ってはるの耳を僕の声で満たしてはるの口を僕のそれで塞いではるの手をはるの足をはるの背をはるの髪をはるの心を、はるを奪ってしまいたいという望みを達成してしまいたい欲求と戦う必要がある。
恋焦がれる日々もそう悪くはない。その先に待っているものを考えるだけで心が躍るから。
「……着いちゃった」
少し残念そうな響きを含ませてはるが言った。
「ほんとだ、もうちょっと遠回りした方がよかったかな」
「……多分ね、君が病院抜け出してるのばれてると思う」
「うん」
はるは玄関のドアに手をかけたまま言った。
「そしたら君は外に出れない」
「本当だ、今気付いた」
白々しく、大袈裟に言うとはるがふわり、と微笑んだ。春のような、優しくあたたかな笑み。周囲の景色も明るくなる。
「だから、明日は私がお見舞いに行ってあげる」
「ありがとう、はる」
「じゃあね、また明日……あ、そうだ」
「どうしたの?」
「私が君を見つける前に君何か言ってなかった?よく聞こえなくて、でも君の声がするなって思って」
「え?忘れちゃったよ。もう結構前のことだし。その時に聞いてくれたらよかったのに」
「……今、気になったの」
それじゃあ、またね。とはるが控えめに手を振り、玄関の奥に消えてしまう。
「……『僕以外見えなくなればいいのに』」
彼女はまだ僕を見ていない。僕ではないものを見て、僕ではないことを考えている。それが悲しくてつい溜息と独り言が漏れる。
すると、彼女は不思議そうな顔で辺りを見回した。僕の声が彼女の耳に届いたのだろうか。今度はそれが少し嬉しくて、けれど独り言の内容を考えるとぞっともした。
「はる」
そう呼びかけると、今度こそ僕にピントを合わせた彼女が「信じられない」といった目をした。
彼女の中に僕が存在を始めた。彼女が僕を認識してくれた。きっと頭の中は驚きと僕のことでいっぱいだ。
僕の嬉しいも悲しいも、はるのせいで簡単に反転することを彼女は知らない。
きっと僕のことを彼女は恐らく理解していない。それでいい。僕が世界である彼女を理解していれば。そう、僕だけが。逆に僕以外に彼女を理解しようだなんて思ってもほしくない。
「……なんでここに」
「おかえり、はる。遅かったね?」
「そうじゃなくて、君、入院」
「君入院している筈じゃ」と言いたかったけれど驚きが勝って絶句してしまった様子のはるに僕は一つだけ頷きを返す。
「うん。まだ入院中だけど、散歩しに来ちゃった」
「なんで……?」
「今日はとっても寒いから、はるが心配で」
「それだけ……」
「それだけ?まさか。はるに何かあったら大変だからね。ほら、寒そう」
そう言いながらはるにマフラーを手渡す。彼女は不思議そうに首を傾げた。
「これ、何?」
「はるにプレゼント」
「え、い」
「いいから貰って?あ、末春君とかには内緒ね」
だって僕は彼に嫌われているから、という言葉は飲み込んでまた彼女に微笑む。はるがまた何か言いたげなのを遮るように「行こうよ」と歩き出す。
「あ、待って、待ってってば」
はるはマフラーを手に持ったまま僕を追いかけてくる。
「はる、マフラーつけて。そうじゃなきゃ帰してあげない」
僕は半ば本気でそう言ったのに彼女はそれを冗談と受け止めたらしい。面白そうに笑った後手早くマフラーを巻きつけた。
本当にどこかに隠してしまおうかと思ったのに、はるには伝わらなかったらしい。でも彼女に風邪を引かれる心配も、とりあえずマフラーに関しては僕以外のものをつける心配もなくなったのでよしとする。
僕の隣には今、僕の世界がいる。僕の全てがいる。僕が恋している人がいる。
チリチリと胸の奥が痛んだ。彼女はそのことを知らない。何も知らずに、顔を赤くしながら僕の隣を歩いている。寒さのせいなのか、それとも別の意味なのか、僕はあえて考えるのをやめた。
「そういえば変な夢を見たの」
「どんな夢?」
そう聞くと、はるは一瞬躊躇うような素振りを見せた後、ボソっと呟いた。
「……君が死ぬ夢」
「あはは、ありそう」
本当に明日起こっても不思議じゃないね、と笑いかける。はるは無表情を崩さずにふう、と溜息をついた。彼女の吐息は白い霧のようになって広がっていく。
「しかも自殺なの」
「へえ」
それこそ明日起こっても不思議じゃないと思った。はるが見た夢は正夢なんじゃないかと疑いたくなるほどにそれは事実に近い。僕ならやりかねない。むしろやってしまいたい。
「でも理由は忘れちゃった」
ああ、多分、はるの記憶に一生残りたいと思ったからだよ、とはだから言わないでおく。はるには秘密だ。
「それはまた変な夢だね。はる、ごめんね?ビックリしたでしょう」
「そりゃまあ。すえに話したらすえも変な顔してた」
「末春君にも話したの?」
「話したよ。起きたらすぐに会ったから」
「いいなあ」
「……何が?」
「ううん、気にしないで」
はるの近くにはいつも弟の彼がいる。仲良しでよく似た顔で、姉思いで、だからこそ僕のことが嫌いな弟。
はるの首に巻かれたマフラーを見たら彼は一体どんな顔をするんだろうかと想像すると、楽しくなった。
「ねえ、どこに行ってるの?こっち、病院じゃない」
「はるの家。道合ってるよね?」
「そうだけど……」
「家に帰るの、嫌?」
「別に、そんなことはないけど」
「ちなみに僕は嫌」
「どうして?」
「はるがとられちゃうでしょう」
「……君って冗談上手だよね」
「僕ははるに本当のことしか言わないよ」
はるが僕の隣にいないことが、本当は身が焦げそうなくらい嫌なのだ。
家に帰ったらはるは僕じゃない人と会話をして僕じゃない人の名前を呼び僕じゃない人のことを考えて僕とは関係ないものに触れる。
はるが僕以外を見るのが許せないのだ、とはる以外の全てをなくしてしまいたい、とただ願うことはそれは異常なことなんだろうか。
恋をするということは嫉妬するということ。それはとっても簡単で誰でも辿り着ける事実だというのに。
僕の心も行動も表情の一つも一回の呼吸も、全てははるを独占するため。
それなのにはるは僕の名前を呼ばない。はるは僕に触れようとしない。はるは、はるはまるで僕に近づくのを恐れるようにする。
こんなにも好きなのに、と心の中で首を傾げる。
いっそ好きと言ってあげればはるの世界は僕になるんだろうか。
でも僕はその言葉を伝える時をもう既に決めているのだ。だからその時までただ一度だって「好き」だとはるには伝えない。
全てははるを独り占めするため。だから今このときも僕のものにならないはるを黙って見つめるだけ。
僕以外にはるに関わる全てのものが許せないし、許せなければ許せなくなるほどはるに対する気持ちが募っていく。
それを伝えるときはいつになるんだろう。
少なくともそれは今ではない。今は違う。
まだこの世の全部に、はるに触れる空気すらも僕のものにしてしまいたいと、はるの目を僕の手で覆ってはるの耳を僕の声で満たしてはるの口を僕のそれで塞いではるの手をはるの足をはるの背をはるの髪をはるの心を、はるを奪ってしまいたいという望みを達成してしまいたい欲求と戦う必要がある。
恋焦がれる日々もそう悪くはない。その先に待っているものを考えるだけで心が躍るから。
「……着いちゃった」
少し残念そうな響きを含ませてはるが言った。
「ほんとだ、もうちょっと遠回りした方がよかったかな」
「……多分ね、君が病院抜け出してるのばれてると思う」
「うん」
はるは玄関のドアに手をかけたまま言った。
「そしたら君は外に出れない」
「本当だ、今気付いた」
白々しく、大袈裟に言うとはるがふわり、と微笑んだ。春のような、優しくあたたかな笑み。周囲の景色も明るくなる。
「だから、明日は私がお見舞いに行ってあげる」
「ありがとう、はる」
「じゃあね、また明日……あ、そうだ」
「どうしたの?」
「私が君を見つける前に君何か言ってなかった?よく聞こえなくて、でも君の声がするなって思って」
「え?忘れちゃったよ。もう結構前のことだし。その時に聞いてくれたらよかったのに」
「……今、気になったの」
それじゃあ、またね。とはるが控えめに手を振り、玄関の奥に消えてしまう。
「……『僕以外見えなくなればいいのに』」
作品名:嫉妬SS 美緒也(侵食) 作家名:大文藝帝國