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鰆の傷

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鰆の傷




 鰆がロッカーの中で蹲っていた。


 鰆田平は醜い。左眼球から顎まで縦一直線の引き攣った傷痕を持つ。義父から虐待を受け、割れたガラスに顔面を滅茶苦茶に叩き付けられて出来た傷だという話を、昨日クラスメイトから聞いた。

 二週間前に転校してきたばかりの僕は、その話を好奇心半分、嫌悪半分で聞き流したが、改めて至近距離で鰆の顔を見てみると、これこそが醜さの体現というものだろうかと納得してしまうものがある。

 だから、鰆は義父だけでなくクラスメイトからも虐められる。醜いという、ただそれだけであり絶対的な理由で。もしくは鰆の身体から虐待されるオーラというものが出ているのかもしれない。どちらにせよ僕にはどうでもいい事だけれども。


 掃除用具入れであるロッカーの中で蹲る鰆は、無表情で僕を見上げている。


 「ホウキ出したいんだけど」
 「広川、もう放課後だ」
 「掃除サボったのバレたから罰掃除。なぁ、ホウキ出したいんだけど」
 「悪い」


 欠片も気持ちの篭っていない平坦な声で謝罪の言葉を吐き出して、鰆がロッカーから這い出てくる。よく見ると、学生服の背に幾つもの足型がつけられている。クラスメイトから散々蹴り飛ばされてから、ロッカーに閉じ込められたのだろう。下らないイジメ方だと思えば、無意識に溜息が出ていた。 生半可なイジメは格好悪い。イジメる方も、イジメられる方も。


 「やるならもっと徹底的にやればいいのにね」


 無意識に零れた言葉に、立ち去ろうとする鰆の肩がピクリと反応した。左肩越しに振り返るから、汚い傷痕が丸見えで、思わず僕は眉を顰めてしまった。


 「何を?」
 「イジメ。そう思わない? どうせイジメるなら徹底的にイジメて、自殺でもさせたらいいじゃん。その方が鰆田だって毎日泣かずに済むでしょ?」
 「俺は泣いてなんかない」


 鰆の声は、硬質なガラスのような響きを持っていた。酷く淡々として、何一つとして興味関心がなさそうな声音。その顔は仮面でも貼り付けられたかのように表情がない。


 「そう? じゃあさ、鰆田って何が楽しくて生きてんの?」
 「楽しくなければ生きてちゃいけないのか?」
 「辛い人生のなかで生きてる理由を見いだせるの?」
 「俺の人生を辛いって決め付けるな」
 「じゃあ、楽しいの? 幸せなの? 毎日家でも学校でも殴られて、そんな気色悪い傷まで付けられてさ、これからの人生どうやって生きるの? そんな傷、見るだけで誰だって胸糞悪くなるよ。高校でも大学でも仕事場でも、どんな場所でだって上手くやっていけるわけないじゃん。どこに行っても、どうやっても、いつまでも虐げられる。それでも鰆田の人生は辛くないの? 死んだ方がマシじゃん」


 早口でそう言い切る。鰆は何か言いたげに唇を薄く開いてから、ゆっくりと閉じた。小さく俯いて、思い悩むように緩く目を細めている。その顔に夕陽が射して、傷痕が明瞭に浮かび上がっている。


 嗚呼、汚い、醜い、おぞましい。その傷を見る度に、自分が感じたこともない身体の奥の奥から嗜虐的な感情が噴き出して来るのを感じる。汚物のよりも醜悪で、全人類が背負うべき罪悪の象徴だ。


 「俺は」


 不意に、鰆が呟いた。僕を見据えるその眼差しは、自分の醜さなど気にもしていないとでも言いたげな強さを持っている。


 「俺はきっと一生誰にも抱きしめられることはないけど、誰かを抱きしめることはできる」
 「は、何言ってんの?」
 「死なないのに理由はない。生きてるのに理由がいらないみたいに。ただ俺は死ぬまえに誰かを愛したい。愛して死にたい」


 囁くような声でそう漏らして、鰆は淡くはにかんだ。その消え入りそうな儚い微笑みに、一瞬心臓が止まる。笑うと、鰆の傷は更に引き攣って、おぞましさを際立たせた。それなのに、どうしてだか、哀しいぐらい美しい。


 きっと、鰆は誰も恨んでいない。憎んでいない。許しはしないけれども、受け容れている。そうして、唯一望んでいるのはささやかな願いだ。愛情を知らない鰆は愛情を知りたがっている。与えられる側ではなく、何処までも与える側として。与えられることを諦めて。


 込み上げてきたのは憐れみだ。だが憐れみとは違う、心臓を引き絞るような感情も同時に込み上げた。 その瞬間、鰆を抱き締めていた。両腕で腰を手繰り寄せて、身体をぴったりと密着させる。鰆の鼓動が僕の右胸を叩いた。


 「――同情?」


 微かに揺れた鰆の声が鼓膜をくすぐる。その動揺した声に、微かに笑いを零しながら、答えた。


 「愛だよ」
作品名:鰆の傷 作家名:耳子